インタビュー
2019年6月号掲載
「新・古着屋総兵衛」第十八巻『日の昇る国へ』刊行&シリーズ完結記念 インタビュー
希望の時代の影を追って
佐伯泰英 聞き手木村行伸
新・旧両シリーズに『光圀』を加えて、全三十巻。「武と商」に生きた鳶沢総兵衛の物語創作秘話。
対象書籍名:『日の昇る国へ 新・古着屋総兵衛第十八巻』(新潮文庫)
対象著者:佐伯泰英
対象書籍ISBN:978-4-10-138063-6
二十年の付き合い
木村 古着屋シリーズの完結おめでとうございます。読者の一人として、大変豊かな時間を過ごさせていただきました。
「影始末」シリーズが十一巻、新シリーズが十八巻、スピンオフの『光圀』を合わせると全三十巻の壮大なシリーズとなりました。
初代鳶沢総兵衛は西国出身の浪人でしたが、徳川家康より、古着屋の権利と日本橋富沢町の土地、他に駿府に隠れ里の知行を下賜される一方で、日頃より力を蓄えておき、徳川家危難の折には身命を賭して働けとの密約をかわします。表の貌は「古着問屋」、裏の貌は「影の旗本」という仕組みが古着屋新旧両シリーズの構造になっています。
佐伯 「影始末」の第一巻『死闘』が2000年刊行ですから完結までに足かけ二十年ということになりますね。「古着屋」は、時代小説に転身後、シリーズとしては、「密命」(1999年)の次の二作目でした。この後に「鎌倉河岸捕物控」(2001年)がスタートします。
木村 世の中は、インターネットが整備され、パソコン・携帯電話が普及しはじめたもののバブル崩壊後の先行きの不透明な時代でもありましたね。
一千ドル紛失事件
佐伯 若い人たちにしわ寄せがいった時代でしたね。もう五十年前ですが、アルバイトで貯めたお金をトラベラーズチェックに替えて、ソ連を横断し、ウィーン、パリ、バルセロナと、ほとんど情報もないまま、現地の知人を頼って旅をしたことがあります。モスクワからウィーンに移ったんですが、朝、街に焼けたパンの香りが漂っている。ソ連は軍事大国だったとはいえ、庶民の経済レベルでは貧しい社会主義国家でしたから、食べ物の香りなどしません。ウィーンの街に溢れるパンの香りを、「ああ、これが自由の香りだ」なんて思ったものです。その直後です。顔が真っ青になったのは。
木村 何かあったんですか?
佐伯 モスクワのホテルにトラベラーズチェック一千ドル分を置き忘れてきてしまったのに気づいたんです。
木村 えっ!
佐伯 現地のアメリカンエキスプレスに駆け込んだのですが、「パリの支店に行け」という。鉄道のキップは持ってたので、食うや食わずでパリに移動し、パリで働いていた大学時代の友人のアパートに転がり込んで、アメックス通いです。訪ねども訪ねども「またお前か。まだだ」です。ようやく確認がとれてトラベラーズチェックが再発行されたのが二週間後でした。それでようやくスペインに向けて移動出来たのです。
木村 生きた心地がしなかったんじゃないですか。
佐伯 私は楽観主義者なんですが、さすがにあのときは肝が冷えました。
話を戻しますと、2000年頃の日本は就職氷河期まっただ中で、不安な時代でした。若い人たちに夢や希望を語る雰囲気ではなかった。私がやったような無謀な旅のひとつもなかなか出来るような時代じゃなくなってしまっていた。そういうこともあって希望のある小説を書こうと思っていました。
『十五少年漂流記』のオマージュ
木村 「影始末」シリーズは、基本的に江戸の街もしくは街道筋で物語が展開しますが、九巻以降は海洋冒険小説の趣が出てきますね。六代目総兵衛ら一行は危険を冒して交趾(のちの越南)に交易に出ます。海や船に特別な思い入れがあったのでしょうか。
佐伯 子供の頃、ジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』が好きで、何度も読み返しました。実際に船に乗ると船酔いするので船旅は想像の世界だけですが、船にロマンを感じるのはその影響もあったのかもしれません。
木村 ヴェルヌへのオマージュだったんですか。これは意外なお話をうかがえました。目的地を越南に選んだのには理由があるのですか?
佐伯 茶屋家三代目清次は、江戸の初期、越南に朱印船を出して莫大な利益をあげています。当時かの地に渡った日本人たちは、夢を追って危険な渡航に出たのです。鎖国令が整って帰国できなくなりますが、ホイアンには日本人街ができた。四百年前、日本人の希望の地だったんですね。そこにつながっていく物語を書きたかったんです。その希望を重ねることで今を生きる私たちの未来を刺激することができないかと思ったのです。
女性の活躍と若者の成長
木村 新シリーズでは、女性たちが生き生きと輝いていて、活躍しています。十代目総兵衛の母、今坂恭子、実妹ふく、坊城麻子・桜子親子、砂村葉、お香・おりん親子......。
佐伯 そこははっきり意識したところです。昭和の終わりに男女雇用機会均等法が施行されて、平成という時代は女性の躍進の時代でもあった。そこにエールを送りたかったんです。
木村 女性の活躍に限らず、作品に現代社会をリンクさせていくのは、佐伯文学の特徴といってもいいかもしれませんね。
佐伯 時代小説という器を借りながら、「今」を書くというのは、ひとつの生命線だと思っています。つまり私の時代小説は「髷のある現代小説」でもあると考えています。
木村 おこもの忠吉、かげまの歌児、実弟の勝幸、小僧だった天松、火薬方の佐々木正介......、幼かったり、若かったりまだ半人前だった人物たちが物語の進行とともに少しずつ成長していくのも、このシリーズの醍醐味ですね。
佐伯 江戸期ですから、政治といえば老中、若年寄といった幕閣の連中が動かしている訳ですが、私は基本的に政治を信じてないところがあります。思想や政治なんていつひっくり返るか分からない。米国の大統領を見ていれば感じるものがあるでしょう。
頼れるのは、自分しかいない。書を読み考え、旅で見聞を広め、社会で働くことで自身を成長させていくしかない。若い人たちも未来に希望を持って欲しいと思っています。幼い登場人物たちが成長していくところを醍醐味と思っていただけるのは作者としては紛れもない喜びです。
人もカネも動かしてこそ
木村 また、この物語は大きな家族の物語でもあると思うのです。鳶沢一族に池城、今坂、柘植一族が加わり、坊城家とも婚姻でつながり、最後には川端一族も仲間に入ります。他に、北郷陰吉、忠吉、筑後平十郎、加納恭一郎、砂村葉といった独立系の人たちにも総兵衛は分け隔てなく愛情を注いでいます。
ここで注目したいのが、この物語における正義という概念の成長です。当初は徳川将軍という為政者のために戦うことが正義でした。海外交易という禁令に触れる行動に六代目総兵衛は出ますが、大きくは徳川家を護るための行動でした。それが十代目総兵衛になると彼の正義は、徳川家守護を超え、見え隠れしはじめた諸外国との闘いも視野に入れ、大きく日本国というものを護ろうとしています。そうした中で、六族と独立系の人々を鍛え、また守ろうとしています。ここに六代目から十代目へ、総兵衛の成長も見て取れます。
佐伯 十代目は越南ホイアンの生まれ育ちですから、諸外国の文明のレベルも経済の有り方も政権の一時性も肌身にしみている。組織、人材、経済など活用してはじめて意味があるわけです。六代目の後、百年間の大黒屋の主人たちは、蓄財に励んだものの、それらを有効に利用できなかった。人物も育たなかった。十代目は一気に動かしはじめます。
古着大市も巨大帆船建造も組織の整備拡大も人材の登用も、金属疲労のように朽ちかけていた大黒屋と鳶沢一族を大改革していった。
木村 平成年間で日本を代表する大企業が経営危機を迎えました。自動車産業や大手家電メーカーなど......。大黒屋の危機はここにリンクしていたのですね。老朽化や人材難は、お金や人の動きが止まったところから始まる。それを動かし続けないと組織も人材も死に体になってしまう。
佐伯 お金も人も動かさないと駄目ですね。転石苔むさずといいますか......。今、出版界がまさに大黒屋と同じ危機を迎えているような気がします。
木村 この物語で特筆すべきことのひとつに十代目総兵衛は、自分たちだけが儲かればよいという発想が微塵もないことです。古着大市は同業者や零細の担ぎ商いの人々にもお金が回るような仕組みをもっていますし、野分で町が被災したら、私財を投じて復興に尽力します。経済の発展は、新古典主義的な考え方では、皆がそれぞれ自らの利益を最大化するよう利己的に振る舞えば、結局は全体の富も最大化するというものでした。ですが、最先端のアメリカの政治哲学では、倫理をともなった経済発展を意識しないと社会全体の富は増えないという方向にシフトしているようです。十代目総兵衛は、すでにこの考えを実践している。
佐伯 日本人が当たり前に意識していた商道徳にアメリカがようやく気づいたというふうに思えますね。金は天下の回りもの、情けは人の為ならず、ですよ。
「落花流水剣」誕生秘話
木村 総兵衛の遣う祖伝夢想流「落花流水剣」は、一般的な小説の中で剣豪の操る迅速の剣ではなく、ゆったりとした舞いのような必殺剣です。この技の発想はどこから来たんでしょうか。
佐伯 スペイン国王から文民功労勲章エンコミエンダ章を授与された小島章司さんのフラメンコ舞踊をプロデュースさせていただいていた時期があるんですが、その時に、フラメンコのあれこれを小島さんから教わったんです。
クラシックバレエが重力の存在を消す方向で発展したのに対し、フラメンコは重力をしっかり感じながら踊ります。激しく床を踏みつけながら踊るイメージが強くあるかと思いますが、それと同時に本物のフラメンコダンサーは、非常に静かなゆったりとした動きを織り込むのです。このゆったりとした動きが綺麗にできないとダンサーとしては一流ではないと。
内側に激しさを湛えつつ、見た目はゆったりした舞い......これが落花流水剣です。フラメンコの他では、能のゆったりとした間や所作のイメージもあります。
木村 佐伯さんは闘牛の立ち会いや一瞬の間を、剣戟のシーンを描く参考にされているというのは耳にしたことがあるのですが。
佐伯 対峙した時の緊張感や一瞬で勝負の決まる刹那の間合いなど、闘牛の勝負と真剣勝負は共通するところが多いと思っています。私が闘牛を追いかけていた頃は、ヘミングウェイが「午後の死」で描いた闘牛士たちが現役で活躍した黄金期がそのまま続いていた時代でした。もうあの頃の闘牛は見られないでしょう。2000年以降衰退したと聞きます。
私の作品の剣戟シーンは、紛れもなく闘牛の迫力を参考にしています。
ラストのすごさ
木村 ネタバレになるので多くを語れないのがもどかしいのですが、新・古着屋総兵衛第十八巻『日の昇る国へ』のラストは素晴らしいですね。成長しつつある若い人たち、北郷陰吉や筑後平十郎といった独立系のよそ者たち、こうした人々をともなって総兵衛は希望へと歩み出す。もう皆がひとつの家族ですから、だれが後継者になっても問題ない訳です。まさに、『血に非ず』です。新シリーズ第一巻の『血に非ず』を発表されたとき、佐伯さんは「この『血に非ず』という言葉はシリーズ全体のテーマになるだろう」と予告されていました。まさにその意味が、『日の昇る国へ』でぴったり分かる仕組みになっていて、背中に鳥肌が立つような感動を覚えました。素晴らしい物語を本当にありがとうございました。
佐伯 よく読み込んでいただいて、こちらこそありがとうございます。
次なる新作は
木村 最後に古着屋の世界を閉められた後、愛読者としては次の作品はどのような方向になるのか、非常に気になるところです。構想などがありましたらお伺いしたいのですが?
佐伯 まだ何を書こうと決めている訳じゃないのですが、古着屋の世界はどちらかというと男性読者が楽しんで下さる仕掛けが多かったように思います。
木村 組織での動き、商戦、情報戦、海洋冒険、剣戟......たしかに男性読者が好みそうな素材満載でしたが、熱い女性読者もたくさんいたと聞いてはいます。
佐伯 次はもっと舵を切って、女性に楽しんでもらえるような物語を書いてみようと思っています。
木村 それは女性が主人公ということですか? あるいは長屋もので職人夫婦が主人公とか?
佐伯 いえいえ、まだ何も決まってません。パソコンの前に座って何が浮かんでくるか、ですね。
木村 これは待ち遠しいですね。
佐伯 半年待って下さい。
木村 楽しみに待っています! ただ、どうかご無理のない範囲でお願いします。先生がいつまでもお元気でいてくださることが、すべての読者の一番の願いですから。
(さえき・やすひで 作家)
(きむら・ゆきのぶ 文芸評論家)