書評

2019年7月号掲載

生と死の境目をなぞる言葉

古市憲寿『百の夜は跳ねて』

藤崎彩織

対象書籍名:『百の夜は跳ねて』
対象著者:古市憲寿
対象書籍ISBN:978-4-10-352691-9

 生きているとは、どんな状態を指すのだろう。『百の夜は跳ねて』を読んで、真っ先に感じたのはそんなことだった。
 SNSを見れば、生きていても生きていないように感じるという人々の言葉が溢れている。働き詰めの生活でロボットのようになってしまった人や、社会と繋がれずにひとりぼっちだと悩む人、死人のように無感情だとつぶやく人は少なくない。
 本書の主人公は就活に失敗して高層ビルのガラス清掃をする、生きている実感を持てない若者だ。その先輩の清掃員も「俺たちも幽霊みたいなものかも知れないな」と話す。
 窓ガラスの外側にいる清掃員を、内側の住民たちは無意識に頭の中で消している。高層階に住む人々はカーテンをつけないことも多いが、清掃員を気にすることなく着替えたりセックスしたりする人がいるのは、彼らの目から清掃員が見えていないからだ、と言う。
「幽霊」というワードが出てくると、私も胃から酸っぱいものが込み上げてくるのを感じてしまう。私にも人から存在を消され、自分のことを幽霊のように思っていた経験があるからだ。
 小学生の頃、授業中に二人組や三人組などのチームを作らなくてはならない時が来ると、私はよく幽霊になった。
 チーム作りは先生の号令とともに始まり、さっそく仲良しの友達と手を繋ぎにいく生徒やグーパーをして公平さを保とうとする生徒、チームが決まったので雑談をしながら先生が話し出すのを待っている生徒などで賑わっていたが、私はいつまでも教室の端で立ちすくんでいるだけだった。
 巣に帰っていく蜂のようにどんどん席が埋まっていく中で、私が一人で立っていても誰も気にする様子はなかった。いつものことで慣れてしまったのか、目を合わせたら私とチームを組まなくてはいけないと思っていたのか、あまりにも全員が「この教室内では何の問題も起きていない」という顔をしているので、私がここで生きていることの方が嘘みたいだった。
 もしかすると、自分は死んでいて誰にも見えていないのかもしれない。そんな風に感じていた小学生時代を思い出しながら、私は本書を読み進めていった。
 主人公の清掃員は、仕事中に出会った高層ビルの一室に住む老婆から、どこでもいいからビルの内部の写真を撮ってきて欲しいという不思議な依頼をされる。やがて窓の内側と外側にいた二人は隔てのない場所で会い、お互いの孤独について話し合うが、その中で老婆は一風変わった生への捉え方を語る。
 幻聴に悩む主人公が「頭の中で、死んだはずの人の声が聞こえることってありますか」と聞くと、老婆は「あるに決まってるじゃない」と大笑いしながら答えるのだ。
 老婆の大切な人はもう誰一人生きていないので、起きている時も寝ている時も、思い出したり話したりする相手は死んでしまった人ばかりだと言う。老婆は続ける。
「とても嬉しいことがあって、本当はあの人に真っ先に伝えたいという時に、この世界の中じゃ完結しなくなるのよ」
 この言葉に出会った時、幽霊だった子供時代は間違っていないと言われているような気分になっていた。
 この世界は、その中だけで完結しようと思うととても残酷なものなのかもしれない。あまり人に話したことがないのだが、私も幻聴が聞こえていた時期があり、その声に脅かされたこともあれば救われたこともあった。
 特にあの頃、私の心を救ったのは架空の赤ん坊を育てることだった。授業中に私にだけ聞こえる赤ん坊の泣き声を聞き、心の中でよしよしと子を抱くことは、一人ぼっちだった自分にとっての精神安定剤だったのだ。そんなことをふと思い出して、ああ、大人になるにつれて自分の世界はむしろ狭くなっていたのかもしれないのだと気付いた。
 この世界だけで上手く生きていけなくたっていい。
 だって、この世界で生きていくことだけが常に正しい訳じゃないのだから。
 老婆の言葉にはそんな意味が込められている気がして、私は幽霊だった自分の子供時代の為に本の右端を折った。
「この世界の中じゃ完結しなくなるのよ」
 生と死の境目をなぞる言葉に、二十年以上前の時間が優しく包まれていくのを感じた。

 (ふじさき・さおり ミュージシャン/作家)

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