書評
2019年8月号掲載
まだドラマが隠れている「10・19」
山室寛之『1988年のパ・リーグ』
対象書籍名:『1988年のパ・リーグ』
対象著者:山室寛之
対象書籍ISBN:978-4-10-352731-2
著名人の生涯や様々なスポーツの名場面を、マイク一本で再現する「かたりの世界」という舞台を始めて10年になります。その第一作は、元西鉄ライオンズ「稲尾和久物語」でした。「神様、仏様、稲尾様」と言われた大エースでした。
30年以上前の事ですが、すでに西鉄ライオンズは西武ライオンズとなり、福岡から所沢へと移転していました。大阪のテレビ番組で共演させて頂いていた稲尾氏から、何度も聴いたのが、福岡の野球愛。
「平和台球場ではな、球場入れない人であふれるんよ。皆、外にある木に登って観戦するんや。凄いやろ。あれだけ野球熱の高い地域は無いと思う。もう一度、プロ野球チームを福岡に作りたい」
本書は、福岡へプロ野球を誘致すべく動いていた稲尾氏の活動と、その姿勢に感銘を受けた福岡青年会議所の有志達が立ち上がり、本格的なプロ野球誘致活動が始まった1986年を入り口に、1988年のパ・リーグ激動の1年が描かれています。
88年の衝撃――関西にあった二つのパ球団、南海ホークスがダイエー、阪急ブレーブスがオリエント・リースへと身売りしました。ホークスは大阪から福岡へと本拠地を移すことになりますが、その源流に、稲尾氏や福岡青年会議所の有志たちの活動があったことを、本書を読んで初めて知りました。
記憶に残る名選手や、印象的な試合を詳細に綴る野球史も好きですが、グラウンドの外で起きたドラマや、球史を塗り替えた奇跡や秘話の数々もじっくりと読みたい。
著者の山室氏は、元は辣腕の読売新聞社会部記者でしたが、東京読売巨人軍代表を務めた経験もあるからオーナー以下、球団スタッフが身売りで直面する問題やファン対応、取引先銀行との折衝にマスコミ対策など、身売りの背景で奔走する「背広組」の苦労話も余すところなく描かれていてドキドキします。
さて、88年のパ・リーグといえばこの試合、これも本書で描かれている「10・19」。近鉄バファローズがシーズン最終戦をロッテオリオンズとダブルヘッダーで戦った。近鉄が連勝すれば逆転優勝という、今や伝説となっている試合です。
私は、稲尾さんがそうであったように、野球選手に「自分たちにはできない、無理だと思う事をやってくれる、スーパースターであって欲しい」と常々願っています。
「10・19」では、近鉄・梨田昌孝がその一人。
第1試合、同点で迎えた9回表。2アウト、ランナー2塁。引き分けでは近鉄の優勝はない場面。この年、梨田は引退を決めていた。長くチームを支えた功労者の彼を重要な場面で代打に送った仰木彬監督の決断と思い。打席に立った梨田は、ファンとベンチ、そして自らの思いの全てをバットに乗せ、センター前ヒットにつながる。
もう一人、近鉄のエース阿波野秀幸。
2日前の阪急戦で120球を投げ、心身共に疲れ切っていたはずなのに「10・19」では連投した。特に第1試合。リリーフで登板し、打者5人に16球投げ、梨田のタイムリーでもぎ取った1点を死守したあの姿は、まさに、「エース」だった......。
語り継ぎたい「10・19」は、この第1試合で近鉄が勝利していなければ伝説も生まれていません。この辺りを書き出すと感動と涙が止まらなくなるので、後はぜひ、本書をお読みください。
山室氏の筆致は実に細かく、それでいて優しい。ビッグプレーの瞬間に起きている出来事をスローモーションで再生するかのように、多角的重層的に読ませてくれます。
もう一つ、第2試合を実況された朝日放送の「アベロクさん」安部憲幸氏の名実況が本書で再現されています。熱烈な近鉄ファンだった安部さんが、第2試合をどんな思いで実況したのかと思うと、また涙が止まらない......。
「10・19」は書き尽くされ、語り尽くされた感が有りますが、まだまだ隠れているドラマの数々がこの奇跡を生んだということが、本書を読むと実によく分かります。
本書が店頭に並んだら、それを買って稲尾氏と安部氏のお墓参りに行きたいと思います。
(やまだ・まさと 話芸家/タレント/俳優)