書評・エッセイ

2019年12月号掲載

偽物の笑顔が写った鏡

井上荒野『あたしたち、海へ』

河合香織

対象書籍名:『あたしたち、海へ』
対象著者:井上荒野
対象書籍ISBN:978-4-10-473105-3

 異教を信じたために狭い檻に入れられ、数日後にその人は亡くなったという展示を見た。けれども野蛮な拷問器具に入れられなくても、薄い皮一枚で閉じ込められた世界の中で人の心はゆっくりと殺すことができる。清潔で安全そうな世界に潜む、出口が見つからない檻。笑みを浮かべながらやさしい声で檻に入るように仕向ける人たち。閉塞感を書かせたらこの人の右に出る者はいないと思う井上荒野さんが描く世界は、そんな息苦しさに満ちている。
 有夢と瑤子と海は、小学生の頃からの親友で、同じ私立女子中学校に進学した。リンド・リンディというミュージシャンが好きなのも一緒で、合格祝いにはお揃いの自転車を買ってもらった。だが、中学入学後すぐにあったマラソン大会をきっかけにして、海に対するいじめが始まる。最初は見て見ぬふりをしていた有夢と瑤子だが、クラスのボスであるルエカに「どっち側のひとなの?」と迫られ、友達を裏切って、いじめに加担していくようになる。
 海はいつだって顔中で笑っているような子だったけれど、曖昧に笑うことができなかった。だからいじめられた。楽しいかどうかなんて関係ない。みんなが笑えば一緒に笑うことがその世界では生き延びるための術なのだ。そうやって現実から目をそらして曖昧に笑いたいから生贄が必要なのだ。素直に大笑いしていた子どもたちが、楽しくもないのに人と同じように無理して笑うように飼いならされ、そして大人になると疲労が貼り付いたような笑顔になっていく様があぶり出される。
 さらに、海は「白雪姫」のお話に登場する魔女のように、聞こえの良い嘘ではなくて現実が映る鏡を差し出した。海は、マラソン大会のくじ引きはどうして公平ではないのか、どうしてなんでもルエカの言うとおりにしなければならないのかと問いかけた。皆が自分ではどうしようもない重い現実を見ないように笑っているのに、そんな笑いはそもそも偽りだと突きつけたのだ。異端者である海を排除しなければ自分を保つことができないと感じたルエカによって、いじめはどんどんエスカレートしていく。
 物語の語り手は有夢、瑤子、瑤子の父、教師、海の母と移り変わっていく。そこで作家は読者に対しても、鏡をつきつける。鏡には日常に行き詰まり、大事なことを見て見ぬふりをする、安全圏の中で自分が傷つかないことしかできない大人たちが映し出され、自分の姿を見たようでぎょっとする。いじめのニュースに接するたびに、心を痛め、誰か助けてあげればいいのにと思う。けれど、思うだけなら誰だってできる。真っ当そうな言葉を投げかけるだけの人の残酷さ、嘘が巧みに描きだされる。
 どうして人は自分より弱いものを生贄にしていじめるのだろう。どうして人は誰かを否定することでしか幸せになれないのだろう。人が集まるとヒエラルキーが形成され、自分が損をしないためだけに人を貶めていくのはなぜなのか。この小説で問われているテーマは、現代の日本の少なくない場所において根本から考えることを忘れられた問題であるように感じる。昔からそうだし、考えても仕方がないと諦められてきたように感じる。
 本当はいじめなんてしたくないと有夢と瑤子は思っている。いじめの首謀者のルエカだって、いじめたくないと思っている。取り巻きもいじめることと笑うことに倦んでいる。けれども、蜘蛛の巣に掛かったように誰も逃れる方策を見つけられずにいる。
 そんななか、有夢と瑤子は「ペルーに行く」という合い言葉を考える。行くためには、薬か電車か海か、あるいはゴンドラの扉を開けるのもいいかもしれない。辛い現実から逃れるために夢想するペルー。最初は心の逃げ場だったものが、どんどんと切実な強固なものになっていく。
 だが、鏡を割ろうと一歩踏み出す人たちもいる。海の母は娘を救うために、偽物の笑顔が写った鏡を割ろうとする。そして少女たちも行動を起こす。悲しいことや苦しいことばかりだと思っていた時にも必ずある、美しい瞬間ややさしい日常の時間の積み重ねに気づく瞬間には心が揺さぶられる。彼女たちの行き着いたペルーはどこだったのか。しなやかに生き延びるためにどうすればいいのか、その術を本書は示してくれる。いじめや人間関係に、そして日常に倦んでいる人すべてに読んでもらいたい傑作である。暗闇の中でも、檻の中でも、絶やすことのできないのは生きることの剛健さだと気づかせてくれる。

 (かわい・かおり ノンフィクション作家)

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