書評
2020年5月号掲載
小さな幸せという救い
ベルンハルト・シュリンク『オルガ』(新潮クレスト・ブックス)
対象書籍名:『オルガ』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:ベルンハルト・シュリンク/松永美穂訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590165-3
ドイツの女教師オルガの一生を縦糸に、十九世紀末から二十一世紀までの激動の歴史を横糸として織り上げた愛の物語。いくつか謎が織り込まれ、あなたは迷路に誘いこまれ、最後に謎が解き明かされる。三部からなり、それぞれ語り手が異なり、オルガとヘルベルトの若き日の恋が多面鏡に映し出され、様々な姿を見せる。
第一部は十九世紀末から第二次大戦直後までのオルガの半生を中立的な視点から語る。ポーランド系の洗濯女を母に、ドイツ人港湾労働者を父として生れたオルガは、両親を発疹チフスで失い、父方の冷淡な祖母に引き取られる。裕福な農園主の息子ヘルベルトとの初恋。だが彼の家族は許さない。彼女は田舎町で教師となり、ヘルベルトは近衛兵として「広大な土地」を求めドイツ領南西アフリカへ渡りヘレロ族との戦闘にも参加、その後もドイツ国家の拡大を唱えアルゼンチンなど世界各地をめぐる。遠距離恋愛。オルガの孤独を癒す少年アイクとの友情はどこか秘密の香りがする。植民地主義に批判的なオルガ、だがドイツの拡張を主張するヘルベルトは1913年に北東島探検に出て遭難した。1914年のサラエボ事件を契機に第一次大戦が始まり、やがて祖母も死ぬ。第二次大戦を目前に、ナチスの党員となったアイクと訣別。大戦中にオルガは聴覚を失って解雇され、裁縫の仕事で生計をたてていたが、1945年2月、戦禍で難民となり西へ逃げて終戦を迎えた。
第二部の語り手の「ぼく」は、オルガが裁縫師として働く牧師一家の息子フェルディナント。1950年代から二十一世紀までを語る。オルガの回想を「ぼく」が語り直し、彼女の人柄や思想を綴る。オルガは1968年の学生運動を「自分たちの問題を解決する代わりに、世界を救おうとしている。目標が大きすぎる」と批判。ヘルベルトやアイクを破滅に導いたのは、ドイツを統一したビスマルクだと、彼女は考えていたのだ。ある晩、オルガはビスマルクの像の傍らでテロの犠牲となり死亡。だが死は謎のベールに包まれている。オルガの死後、「ぼく」は文化省に勤め結婚し年金生活に入るが、妻を交通事故で失った。ある日、ベルリンの女性記者アーデルハイトから連絡が入る。アイクの娘で、父親の人生を調べている。父はソ連抑留から帰還し結婚したが、愛のない家族だったと、彼女は回想。一方、ノルウェーの古本屋で、オルガがヘルベルトに宛てた手紙が発見される。
三部は書簡小説の形をとり、オルガの数々の手紙が愛と死の秘密を解いていく。物語の終わりは軽やかだ。「ぼく」はアーデルハイトの顔の中に懐かしいオルガの面影を見つけて再会を心待ちにしており、淡い愛の余韻を残す。
本書を、私はセルビアの首都ベオグラードで読んだ。小説にも言及される第一次世界大戦の発端となったサラエボ事件は、民族自立を求めるスラブ系の若者たちによるテロ事件。また第一次大戦を綴るオルガの手紙には、ドイツの村で「セルビア人はくたばれ」と叫ぶ子供が描かれている。第二次大戦中、セルビアはナチス・ドイツの占領下で大量殺戮に耐えた。両大戦はセルビア文学に実存主義の詩学をもたらし、アンドリッチやキシュなどによる珠玉の作品が生まれた。大戦の悲惨をドイツ文学が描くと、歴史は別の表情を見せる。
だがオルガが示したように、大国の拡張主義は小国を不幸にするだけではなく、大国の民からも幸せを奪う。愛という小さな幸せを求める人は、誰もが拡張主義の犠牲になるのだ。オルガから愛する人を奪ったのは、「広大な土地」を求める思想だった。
オルガたちの人生の救いはどこにあるのだろう。本書では牧師の家庭だけが温かで愛情に満ちている。だがオルガを引き取った祖母の家にも、ヘルベルトの裕福な家族にも温もりがなかった。オルガとヘルベルトを救うのは愛だ。愛とは、沈黙を分かちあえる人との出会い。思想や社会的地位の違いをこえ、二人を結ぶのは明るい沈黙だった。聴覚を奪われて音のない世界に生きるオルガとフェルディナントも、フェルディナントとアーデルハイトも、優しい沈黙に結ばれている。
今、私はコロナウイルスによる非常事態の中でこの文章を書いている。外出も制限された今、愛の大切さが透き通って見えてくる。「広大な土地」を求めるのではなく「小さな幸せ」を大切にすることで世界は救われる。それを信じたい。
(やまざき・かよこ 詩人/翻訳家)