インタビュー
2020年6月号掲載
『迷子のままで』刊行記念インタビュー
騙されることこそ悪である
強いメッセージを込めた二編の中編小説から成る『迷子のままで』。その出生の秘密を著者・天童荒太に訊いた。
対象書籍名:『迷子のままで』
対象著者:天童荒太
対象書籍ISBN:978-4-10-395705-8
罪を問われない被疑者がいる
○聞き手 タイトルにもある「迷子」のモチーフは、天童作品のあらゆるところに現われるものではありますが、今回の表題作「迷子のままで」においては、冒頭にダイレクトな迷子シーンが据えられていますね。しかも現在進行形のものと主人公の幼児体験とが重ねられている......。
●天童 象徴的かつ輪郭のはっきりしたシーンを最初に置く構成をとることがわりと多いですね。映像で物語の構造やリズムを学んだという自覚があるので、具体的な映像から全体のイメージを提示することを心がけてきた。私以降の世代にもその方が入りやすいでしょうから。
○ 迷子のイメージはその後どんどん変容します。恋人が妊娠してしまい、行きがかり上、強がりも手伝って結婚に至った主人公ですが、早期に離婚した。元妻とわが子がどこでどう暮しているかすら知らない。連れ子のいる年上の恋人と暮し始めた矢先、実子が虐待死するという寝耳に水の事件が起りますが、主人公は嘆き悲しむというよりもひたすら戸惑うばかり。この事件を追う女性刑事は、主人公を念頭に置いてこう発言します。「この件には別に一人、罪には問われない被疑者がいる気がします」と。ここが大きなターニングポイントでしたね。
● その一行がこの話を書く最初の動機です。主人公の男は自分の罪に無自覚です。その意味でも迷子なわけです。女性刑事にも子供がいて、子育ての負担を夫より多く担わざるを得ない経験から、男の罪が見えてくる、という構造ですね。
○ 主人公はテレビから密着取材をかけられます。そして、息子を虐待していた元妻の再婚相手に対する憎しみを煽ろうと取材者側は躍起になる。しかし主人公は息子の死をどう受けとめればよいか迷うばかりで、番組制作会社の方が焦れてしまうというシーンが印象的でした。
父親ばかりがなぜ免罪される?
● 『永遠の仔』以降、児童虐待を公に語ることが、ワイドショー等を含めてタブーでなくなっていったように感じているのですが、その取りあげ方によっては強い異和感を抱いていました。シングルの母親の育児放棄であれ連れ子が再婚相手の男に殺されたケースであれ、母親の方がより強く責められるのはどうしてなんだろうと。なぜわが子を守れなかったのか、母親も虐待に加担してたんじゃないのか――そんな論調が大勢を占める中で、常に抜けおちているのは実の父親の存在なんですよ。女の子といいことして、子供ができた途端に面倒臭くなって逃げる。養育費も払わない。そうしたいい加減な男がなぜか免罪されてる。男を甘やかす日本の差別的精神風土ゆえなんでしょう。そのことにとても異和感を持っていたので、今度の作品ではこれを俎上に乗せようと。小説って眼に見えないものを可視化できる一番の器ですから。
○ この作品を特徴づけているのは、主人公まわりの人物達の目線の低さですね、高みから俯瞰する形になっていない。
● 児童虐待を扱うマスコミもコメンテーターも大卒者あるいは社会的地位のある人達なので、恵まれた自分の目線レベルでしか事象を捉えられず、この世には、高校を卒業してても掛け算割り算も出来ない、アルファベットすら覚えられずにきた、環境に恵まれなかった人が山ほどいることに理解が及ばないんです。彼らが社会に出るプロセスでは、至る所に自己卑下の感覚がつきまとう。自己肯定の唯一の拠り所がセックスとなるケースが少なくない。なぜならそこだけは平等ですからね。加えて、同級生の中でいち早く体験することは大きな優越感となる。だけど子供が出来たら育児が大変で、遊んでなんかいられないということには想像が及ばない。そのステージに至って子供が被害者となった事件が表面化してくる――。こういう恵まれている人達には見えない真実を可視化するには当事者たちの目線のレベルを工夫するしかない。
絶望を知ってこそ
○ クライマックスでは、子供の描いた絵が出てきますね。主人公の似顔絵ですが、死んだ息子が描いた絵と、同棲相手の連れ子のと二枚ある。それによって主人公が初めて父親らしくなるという皮肉。
● この辺はライターズ・ハイに近い感覚で、思いがけず浮んだ設定です。二つの似顔絵を前に、主人公はやっと父親の自覚が芽生えたのかも知れない。けれど現実には、死と喪失が眼前にあるだけ。
○ 辛く悲しいラストだけど、主人公はこの絶望に至って、少なくとも迷子ではなくなった気がします。
● どうにもならない悲劇をふまえることが、時には主人公が成長に向って踏み出す力につながりうるんじゃないか。ここを安易な大団円にするつもりは端からなかったんですが、絶望の淵におちたままじゃなさそうだ、という受けとめ方をして頂ければ嬉しいですね。
被災地訪問で建設現場に詳しくなった
○ 「いまから帰ります」を読み始めてすぐ、油圧ショベルやフレコンといった、建設現場のディテールがやたらとリアルなことに驚きました。
● 震災による津波被害の現場を、自分の仕事のために訪れるのは失礼だろうと自粛していたところ、TV局から、『悼む人』の作者が3・11の悲劇をどう捉えるか、という企画を持ち込まれたんです。それなら何かお手伝い出来るんじゃないかと思い直し、都合十回ほど被災地に伺うことになりまして。特に福島では、爆発のあった三号機も間近で見ました。私の心を特に捉えたのは、被災地周辺で働く人たちです。大型機械を操って瓦礫を片付ける人、少し離れた所で警備をしている人、波に攫われた街でフレコンに瓦礫を詰める除染作業に追われる人。作業を終えてゼイゼイと肩で息をしている原発作業員の印象も強くて......政治的意見を別として、現実に命をさらして働いている人たちがいる。彼らのことを、可視化したいという強い思いを抱くようになりました。しかしどうすれば物語として成立するのか。政治的にならず、正義派ぶらずに描けるのか。それを模索していたときに、クストリッツァ監督の映画『アンダーグラウンド』のことが頭に浮かんで、深刻な話もあえて明るく賑やかに表現できないかと、色々考えて。
今宵ひと夜の濃密なドラマ
○ 物語は、作業明けの夕方から夜明けまでの、わずか十数時間に、一挙に動きますね。これは絶妙の演出でした。
● 除染などの苛酷な労働から解放された一夜の話としてバカ騒ぎ的に進める。一方で視点をぶらさずに多方向に話を広げるため、映画を撮る夢を追う主人公が、脚本の試作プロットとしてそれらをギュッとまとめてゆくというスタイルを考えた。命がけの労働のあとの解放感は、殊更大きいだろうと想像できますから、凝縮された濃密な時間ということですね。
○ この作品、映画にまつわる話が沢山でてきますが、実際に映画界に身を置いた経験を持っておられる天童さんの、映画との関わりのそもそもって何ですか。
● 兄たちが映画好きだったので、その影響がまずあったのと、父が仕事の関係でしばしば映画の招待券を頂くようになって、中学時代から映画館通いが日常化していました。なので小説を書き始めた頃は、作品に映画の文法が混入してることが気になって、無理に消そうと努めたくらいです。だけど次第に映像の特性を活かした文学表現を模索した方が、自分の特長になるかと気づきまして......。
生死の境界から見えるもの
○ この小説は、ラスト近くになって、異界とのコンタクトが用意されていて、少なからず驚きました。
● 原発の周辺で危険な仕事に従事している人たちは、文字どおり生と死の境目にいるわけですから、彼らがたまさか向う側の世界から「呼ばれた」としてもおかしくないんじゃないか、そんな発想で、被災地に広く見られる新しいフォークロアと結びつけたんです。
○ 「差別」も重要なモチーフの一つとなっていますね。直接的には人種差別。
● 除染作業に携っている人たちには、現実に外国人労働者も多い。被災地に限らずこの国の厳しい状況を支えている現場が、外国籍の人々によって成り立っており、本来なら感謝されてしかるべき人たちが、差別の対象になっているということも可視化したかった。
騙されることこそ悪である
○ 後半になって、ギョッとするような言葉が引用されますね。伊丹万作の文章ですが「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」に始まる件り。
● 四十年前、私が二十歳の頃に出会った衝撃的な言葉です。これを起点に卒論まで書いた。「映画から読み解く日本人の変わらぬ心性」といったテーマです。当時、戦争を悲劇として扱った映画がブームで、ニューミュージック系の主題歌でラストをメロドラマ風に盛り上げるパターン。「ああ、こうして日本人がまた騙されていくのか」と感じながら卒論を書いていた。権力に家畜的に盲従するのが習い性になっている無気力な国民は、何度でも騙されるし、被害者として免罪されると信じている。悪の本質は実はそこにあるんだ、という伊丹万作の主張は、四十年前の私を揺さぶったし、除染作業に携るこの小説の主人公も、ある偶然から眼にして大きな衝撃を受けるわけです。リーダーの嘘や文書の改竄に眼をふさいできた結果、新型コロナ対策の拙劣さに苦しめられている今の我々にもそのまま通用する話じゃないでしょうか。
○ さて、この二つの作品を続けて読んでみると、天童さん、また一皮むけたというか、新たな面を開拓したんじゃないかと思いました。
● これらを超えるものは、しばらく書けないんじゃないか(笑)。それは「新潮」誌が発表媒体だったことと関係がありそうです。純文学雑誌の読者の前に自分を立たせることの緊張感が書かせてくれたのだと、改めて思っています。
(てんどう・あらた 作家)