インタビュー
2020年9月号掲載
interview
故郷に生きる女たちを書きたかった
聞き手:クリスティーナ・アレオラ/翻訳:小竹由美子
女たちは若くして妊娠し、男たちは身勝手に姿をくらます――。コロラド州デンバー、ヒスパニック系コミュニティのやるせない日常を描いた『サブリナとコリーナ』。デビュー作がいきなり全米図書賞の最終候補となった、話題の新人作家のインタビュー。
対象書籍名:『サブリナとコリーナ』
対象著者:カリ・ファハルド=アンスタイン
対象書籍ISBN:978-4-10-590167-7
フーリア・アルバレスが自分のデビュー短篇集『サブリナとコリーナ』に推薦文を寄せてくれたと知ったとき、カリ・ファハルド=アンスタインは膝が崩れそうになった。数日後、サンドラ・シスネロスもまた本書を称賛しているとわかって、泣いた。
「読書はずっと好きで、高校でフーリア・アルバレスとサンドラ・シスネロスを読んではじめて、わたしのような人間でも作家になれるかもしれないと本気で思ったんです」とファハルド=アンスタインは語る。
「文学は大好きでしたが、文学の世界がわたしのような南西部出身の混血のチカーナを歓迎してくれるようには思えませんでした」
『サブリナとコリーナ』に収められた十一の短篇で、ファハルド=アンスタインは自分の故郷のチカーナたちへ――コロラドを貫く山脈と同じく打ち砕かれることはなく、そこを囲む不毛の砂漠のように回復力のある女たちへ――のラブレターを綴る。
祖先の頭越しに国境が移動
ファハルド=アンスタインの育ったデンバーは、人口の三割以上がヒスパニック、ラティンクス、アメリカ先住民とされているが、近年、こうした多様な人種からなるコミュニティの多くの人々が、デンバーの急速な発展の犠牲となっている。デンバーは今や全米でも最低水準の失業率を誇っているが、また一方で地域再開発による高級化(ジェントリフィケーション)がもたらしたヒスパニック系コミュニティの強制退去の規模においても群を抜いている。これは本書の大動脈を流れている痛みだ。
最後の一篇「幽霊病」で作者は、大学建設のために住んでいた家から立ち退かされた人々の子や孫に授与される奨学金で大学に通う若い女性を描く。これはコロラド大学デンバー校に実在する奨学金がモデルとなっている。発展の名のもとに強いられた犠牲をまざまざと思い出させるこの奨学金は、善意から出たものではあるが、世代にまたがる傷を修復するにはじゅうぶんとは言えない試みだ。
故郷の街の急速な高級化は、南西部にルーツを辿るのがいちばん手っ取り早い女たち、デンバーとその周辺を故郷と呼んできた一族の女たちの物語を書きたいと作者に思わせた要因のひとつなのだ。
多くのチカーナがそうであるように、ファハルド=アンスタインは移民第一世代ではないし、移民第二世代ですらない。彼女の一族は何世紀ものあいだアメリカで暮らしてきた――「わたしの祖先の頭越しに国境が移動したんです」と彼女は語る――だから、本書には移民の経験はあえて書かれていない。
「大学での副専攻科目はチカーノ研究だったので、ラティンクスの経験を描いたさまざまな文学に触れました」とデンバー・メトロポリタン州立大学で文学士号を、ワイオミング大学で芸術学修士号を取得したファハルド=アンスタインは語る。「でも、わたしが繰り返し繰り返し読んでいたのは、最近の移民の経験に関する本でした」と作者は言う。「わたしにはそういった作品が必要でしたが、一方で、そういう作品のなかにわたし自身の姿はありませんし、家族の姿もありません。わたしはとにかく、自分たちが登場するような本があればいいのにと思ったんです」
自分にとって自然に書きたい
自分にとっての本当のところを書こうとして、ファハルド=アンスタインは、多くのラティンクス読者ならすぐさまわかってくれるであろうハードルにぶつかった。自分の文化をじゅうぶんに体現しているとは言えないのではないかという気持ち、そして、自分の実体験からすると嘘くさく感じられる書き方をしろとプレッシャーをかけられている感覚である。
「書き始めたさいしょのころ――つまり、ワークショップとか教室とかで――よく先生から言われたんです。『ここをもっとメキシコっぽくしたら?』『どうしてこの人たちはスペイン語でしゃべらないの?』『あのさ、もっと食べ物のことを書いたら?』わたしの物語にとってはどうでもいいようなことばかり。おかげで自分の作品がちゃんとしたチカーノらしく思えないような方向へいってしまいました。なんだか白人が書いたみたいになってしまって。ところが、事実は複雑で、わたしの登場人物たちはプエブロ族の出身なんです、だから先住民でもあるわけで」
ファハルド=アンスタインのスペイン語は流暢ではないし、本書はすべて英語で書かれている。なかの一篇――一九五〇年代に時代設定された「姉妹」――で、登場人物たちがいつスペイン語でしゃべり(家にいるときは、たいてい)、いつ英語でしゃべっているか(人前では、常に)、作者は文章で明示している。
先祖はスペイン語で話すのを恥ずかしいと思ったでしょう。
今わたしは、スペイン語をしゃべれないことが恥ずかしい。
「わたしたちの先祖にとってスペイン語で話すのは恥ずかしいことだったのだと思います。そして今わたしは、スペイン語をしゃべれないことが恥ずかしい」とファハルド=アンスタインは言う。「わたしはスペイン語を身につけたい。でもまた同時に、自分がモノリンガルであることを恥ずかしく思わないでいられるようになりたいとも思っています」
ピュー研究所の2015年調査報告書によると、ラティンクス移民の親の97パーセントが子供にスペイン語で話しかけるが、第二世代の親になると比率は急激に低下して71パーセントとなり、第三世代かその後の世代の親では50パーセント以下となる。アメリカで暮らすラティンクスの人々の88パーセントが、次世代がスペイン語を話すことは重要だと思っている一方で、71パーセントの人々が、スペイン語を話すということはラティンクスと見なすにあたって必要な条件ではないとも考えている。
このデータが意味することは明らかだ。ラティンクスの家族は、アメリカ暮らしが長くなればなるほど新世代が家庭でスペイン語会話能力を身につける可能性は低くなる。そのため、自分のルーツをラテンアメリカの国に求めるのが簡単ではなかったり、スペイン語や先住民の言葉をしゃべれなかったりすると、自分は本当にラティンクスなのか、というアイデンティティの危機を招く恐れがあるのだ。
「過去のラティンクス文学の大半において、作中にはスペイン語が必要だといった考えが根本にありました、文化のパフォーマンス――わたしはずっとこの言葉を使っているんですが――が必要とされていて、わたしはそれを断固拒否したいんです」と彼女は語る。「以前はもっとスペイン語を入れていました。でもそうすると、スペイン語が流暢な友だちに間違っていないか訊かなくちゃならなくて。わたしはただ、自分にとって自然に感じられるように書きたかったんです」
伝統的治療法が物語に効いた
過剰だが十分ではないというややこしさが、この短篇集には滲んでいる。言葉のことだけではなく、文化的アイデンティティの他の指標についても。本書の短篇のなかでファハルド=アンスタインが最初に書いたものである「治療法」で、作者はチカーノの家族で何世代にもわたって伝えられてきた伝統的な「レメディオス(治療法)」を読者に紹介する。この物語の登場人物たちは、効目があるとわかっていながら、いつもそれらを使うわけではない――そして結局のところ、彼らの疾患を治療できるのはそういう伝統的治療法だけなのだ。
「わたしはアタマジラミや胃痙攣や口臭を、適した薬草を使って治すことができる」と語り手は言う。「たいていは、市販の薬に頼っている。清潔だし、効目が早いし、子どもには蓋が開けられない容器に入っているし。でもときおり、本当にひどい頭痛が起きてアスピリンを飲んでも治まらなかったりすると、わたしはジャガイモのスライスをこめかみに貼りつけて、悪いものが体から吸い出されることを期待する」
「『治療法』で初めて、『ラティンクス文化』の要素を取り上げながらもべつのタイプの物語へと抜け出すことができました」とファハルド=アンスタインは語る。「『治療法』で、自分の声を発見し、いろんな影響を振り払ったんです。影響をすっかり振り払ってしまうことはできませんけどね。自分のアイデンティティを、自分が実際に生きてきた経験として提示するのではなくそれらしく演じろ、というプレッシャーを振り払えたんです」
この物語は本書後半に登場する「彼女の名前をぜんぶ」と呼応している。アリシアという名前の女性が地元のボタニカで堕胎用の調合薬を求めるのだ(この場合の生薬は「下剤」の役目を果たすんです、とファハルド=アンスタインは言う)。この出来事の何年もまえに、アリシアは診療所の医師に処方された堕胎薬を飲んで苦しい思いをしていた。彼女はアブエラ(祖母)から「ああいういろんなろくでもないもんのまえは、薬草しかなかったんだよ、ミハ。なんであたしに頼まなかったの?」と言われる。どちらの物語でも、生薬による治療法はこの女たちにとって二番目の選択肢であって一番目ではない。この選択は、彼女たち自身でさえ自分たちの文化がよくわかっていないという、彼女たちの置かれた不確かな立場を物語っている。
これらの短篇はすべてカリ・ファハルド=アンスタインの独特のアイデンティティ意識から生まれたもので、もっと暗い部分について言えば、女性に対する、とりわけ非白人女性に対する暴力についての作者の経験から生まれている。「チーズマン・パーク」では、語り手は性的暴行を通報するが、たちまち担当の刑事から性的な興味を示される。じつにむかつく瞬間だが、これは作者の実体験に基づいている。
「心のなかでこういう瞬間を収集してきたような気がするんです。『こんなこと言われたのは忘れないからね。いつかこれを作品のなかで使ってやる。そうしたらあんたは世間に顔向けできなくなるんだからね』みたいな感じで」とファハルド=アンスタインは語る。「人間がこんなに醜くなれるってことが、みんなにわかるでしょ」
人間の醜さがもっともはっきり表れているのが「姉妹」で、あまりに暴力的なので、さいしょに読んでもらった人たちからは本書から外すよう勧められたとファハルド=アンスタインは言う。作者の一族に連なる人物の実話に基づいているこの短篇は、表題になっている姉妹の片方が白人の求婚者から口説かれて拒絶したあとで、酷い暴力に見舞われて終わる。
姉妹の物語の背景にあるのが、彼女たちの暮らすコミュニティで若いフィリピン系の女性が行方不明になったというニュースだ。ファハルド=アンスタインは、この女性の話をどういう結末にしようか悩んだ。生きて見つかるのだろうか? 家に帰ってくる? 忘れられる? コロラド州における行方不明者の事件を調査すると、憂慮すべき傾向に気がついた。
「スペイン系の苗字を持つ女性たちについてわたしが見つけた未解決事件の数ときたら、嫌になるぐらいです」と彼女は言う。「ただ遺体が見つかるだけで、事件が解決されることはありません。捜査されないんです」
「見えない存在」という苦しみ
ファハルド=アンスタインは、実生活でもこの傾向に気づいていた。自分のコミュニティの女性が行方不明になっても、ほとんどニュースにもならない。白人女性が行方不明になると、あちこちで報道される。全米公共放送網のニュースキャスターだった故グウェン・アイフィルの造語「白人女性が行方不明シンドローム」というフレーズはこの現象を端的に表している。
「自分は見えない存在なんじゃないか、わたしの知っている女性たちは見えない存在なんじゃないか、という苛立ちがありました」とファハルド=アンスタインは語る。
この激しく大胆な短篇集のなかで、女たちは――そして作者自身も――姿が見え、声が聞こえ、認知される存在だ。この短篇集は苦しみの産物であり、またサバイバルを称えるものでもある。「口にするのさえつらいことです。自分の体が反応してしまうのがわかるんです」と作者は言う。「だからわたしは作家になったのだと思います。自分で経験したさまざまな苦しみを抱え、とても多くの苦しみを見てきました。誰も声をあげることはしませんでした。わたしの人生には沈黙と恥がどっさりあったんです。このままでは自分が溢れてしまうと思いました。なんとかして出さなければ、ほかの形で出てきてしまう。わたしはそれをフィクションでやったんです」
登場人物たちには暗い影があるものの、この短篇集には回復する力が流れている。「姉妹」のなかにさえ、ファハルド=アンスタインは強さを見る。「彼女は自分が結婚したくない男とは結婚しません。そういうことから抜け出すんです。彼女は生き延びました。死にはしませんでした。そしてそれはわたしにとって、素晴らしいサバイバルの物語なんです」
『サブリナとコリーナ』の表紙カバー(英語版)の女性のように、この登場人物たちの心臓はむきだしになってはいるが無傷だ。ファハルド=アンスタインの心臓もまたページの上で、祖先の血とともに鼓動している。
"This Chicana Author Is Writing Love Letters To The Women Of Her Homeland"
First published on Bustle.com, May 18, 2019
https://www.bustle.com/