書評・エッセイ

2020年11月号掲載

動きながら見えてくる風景

原武史『「線」の思考 鉄道と宗教と天皇と

柴崎友香

対象書籍名:『「線」の思考 鉄道と宗教と天皇と
対象著者:原武史
対象書籍ISBN:978-4-10-332842-1

 いくら詳細にその場所の地図や写真を見て推測しても、わからないことがある。
 高低差がある土地の坂を上り下りするときの体感、崖や山の斜面が迫ってくるようだとか、風が吹き抜けるとか、それは自分の体がそこにあることによってようやく得ることができる。
 そして、見晴らし。今ではインターネット上の地図をクリックすれば、観光地や展望のよい地を訪れた人が撮影した画像がいくらでも見られるが、それでも、その場に立ったときに初めて「見晴らし」は現れる。
『「線」の思考』は、そこに行くことによってしか得られない見通し、移動するその道行きでこそ見えてくる歴史や信仰の痕跡が、実際の旅程に沿って書かれている。天皇が「国見」をした場所も登場するが、その場に立って「見る」ことには、単純な行動以上の意味があるのだ。
「ときわ」とも「じょうばん」とも読まれる「常磐」の地を辿る章など、日本の各地で、地名の由来や神話や天皇にまつわる伝承、鉄道や産業の変遷、神社や寺院から新興宗教まで思想のよりどころとなった土地を、丹念に訪ねていく。縦横に絡まる歴史の流れを解きほぐし、近代の事件の背景や今につながる思考を見出していく過程は、スリリングであると同時に、著者が乗る鉄道の車窓が移り変わるのを見るうちに距離的にも時代的にも遠いところまで誘われる心地がする。
 信仰や価値観は、時間をかけて遠い距離を伝わるうちに変化し、その土地の文化や言い伝えと混じり合い、新たな信仰や思想が起こってくる。政治や思想の中心的な場所からの遠さが、たどり着いた地で意識される。「遠さ」が単に直線距離ではなく、物理的、心理的な遠近が重要になってくることは、鉄道に乗り、タクシーを頼み、雨の中を歩くからこそ、浮かび上がってくる。
 いくつかの旅で訪れる地に原子力発電所があり、廃れた炭鉱があり、弾圧された宗教の施設があるのは、偶然ではなく、歴史的な経緯とつながっている。
 国家神道の信仰の中心にいるはずの皇室や宮中の人々が、日蓮宗やキリスト教につながりがあったことにも驚かされた。しかも、それがほぼ女性たちであるのも、非常に示唆的だ。
 同じ神や宗教でも、「母」的な部分に重きを置くか、「父」的な面を信仰するか、それによっても見える歴史や世界は違ってくる。
 この旅で出会う場所は、日本の歴史の中心的なできごととして、目立つところでは語られない。そして今では忘れられようとしている事柄かもしれないが、それらのできごとや思想、信仰が、大文字の歴史を支え、ときには揺るがせたことが、「線」の途上に残されている。地名や施設は、「学園」と名づけたのに学園ができなかった町のように、実現したものばかりではない。支配した側が語り残す歴史と同じくらい、あるいはそれ以上に、実現しなかった願望、廃れた側の思想にこそ見出すことのできる当時の人々の現実が、そして今に連なる影響が、注目されるべきなのかもしれない。
 近代から現代の日本の思考をつなぐのは、街道から鉄道へと移り変わってきた「線」である。新幹線の新ルートができることでローカル線や地元の鉄道が寂れていくという、大都市とそれ以外の格差をさらに広げるような「線」の変化も、鉄道に乗って移動することで如実にわかる。ある町へ行くのに、新幹線や特急でいったん遠くの大都市へ出てから本数の減った普通列車で戻らなければならない。下りる人の少ない駅から乗ったタクシーが、行き先を告げても道がわからずに、会社に聞いたりスマホを頼りにする場面が何度もあるのも、地元の人々からも忘れ去られていく歴史の象徴のようだ。 
 これらの風景は、東京の中心部にいては想像することもない。経済も情報も交通網も東京への一極集中がますます進み、日本中が均質化されのっぺりとした文化に覆われていく。それでも、中心からは見えない地方の片隅で、今、どのような思想や信仰が生まれているかが、この本を読んだことで気になり始めた。
 旅は二〇一八年から二〇年の始めにかけてで、コロナ禍の前だった。駅弁や当地で食べたものが臨場感をもって描かれ、楽しい旅行記としても読みながら、それぞれの地の現在とこれからを思わずにはいられなかった。かつての賑わいがとうに去った場所で、この先また変化していくであろう「線」の貴重な今が、ここには記されている。

 (しばさき・ともか 作家)

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