インタビュー
2020年11月号掲載
短期集中連載『小説 イタリア・ルネサンス』をめぐって(二)
新しい世界への扉はいつでも「男」だった
ルネサンスを描くことから作家生活を出発した塩野七生さん。その後主要テーマを古代ローマ、中世、古代ギリシアへと次々に変えてきましたが、ふたたびルネサンス世界を描いた作品を『小説 イタリア・ルネサンス4』としてまもなく刊行します。
塩野さんにとってルネサンスとは何なのでしょうか。その原点となる大学時代について聞きました。
対象書籍名:『小説 イタリア・ルネサンス2 フィレンツェ』(新潮文庫)
対象著者:塩野七生
対象書籍ISBN:978-4-10-118122-6
――大学の卒業論文のテーマはイタリア・ルネサンスだったということですが、在籍されていたのは哲学科です。なぜ哲学科で、歴史でもあるイタリア・ルネサンスを選んだのですか。
塩野 それに答えるには、東大の受験に失敗したことから始めないと......。
私の通っていた日比谷高校は当時、三分の一はストレートで、次の三分の一は一浪で東大に進むという、東大への進学率ならば有名私立校でも寄せつけないところだったので、私も深く考えずに東大を受けたのです。ところが結果は不合格。心を入れ直して受験勉強に集中すれば来年には、と思ったけど、それとて確実ではない。で、胸に手を当てて考えたんですね。なぜ東大に行きたいのか、と。
答えは簡単。東大で西洋古典文学を教えている呉茂一の講義を受けたい、ということだけだったのだから。それならば価値も認めていない受験勉強に労力を費やすよりも、先生が出張講義に行っている大学を受ければよいので、それが慶應と学習院。いずれも哲学科。受験科目も国語と英語と世界史で、これなら受かると。その時点で受験のための勉強はやめてしまった。
――でも、慶應ではなくてなぜ学習院にしたのですか。
塩野 カリキュラムが面白かったからです。当時の学習院の院長は安倍能成で、彼は哲学科を、かって校長をしていた旧制一高のようにしたかったみたい。英国のパブリック・スクールやフランスならばクラシックのリセ、イタリアだとリチェオ・クラシコになるけれど、要するに古代のアテネにアリストテレスが創立した「リュケイオン」の精神を継承する教育施設にしたかったみたいです。言い換えれば、リベラル・アーツを学ぶところ。三年まででそれらを習得し、残りの一年を費やす卒論は何を選んでもよい、となっていたから。入学早々助手の主導で読まされたのが、バートランド・ラッセルの『西洋の知 恵(ウィズダム)』であったのも、その想いを示している。
しかし、この式の哲学科は、安倍能成の退陣後は分散してしまう。哲学プロパーや歴史学や心理学科とかに。それがまだカテゴリーに別れない前の総合していた時期の哲学科で学んだことが、私にとっては幸運の始まりだったと思っています。
なにしろ、教授たちの顔ぶれからしてスゴかった。安倍能成が招聘したからでしょうが、中村元がいなければ、インド哲学なんて知らないで終ったと思う。彼の教えを受けるためだけにオックスフォードを休学して日本に来た学生もいたくらい。私もふくめた学習院大の学生たちの頭の程度にはもったいない顔ぶれでした。
それで私が学習院に決めた理由になった呉茂一先生ですが、授業初日の先生と私との会話。
「学習院にしたのは、先生の講義を受けるためです」
「ボクの授業は特殊講義なので、一、二年生には単位はあげられないのだけど」
「単位なんて関係ありません。でも、聴講ならば認めてくださいますよね」
というわけで始まったのですが、まず先生は学生たちに、出欠はとらない、単位も、期末に提出してもらうレポートで決めます、とおっしゃった。そうしたら次の授業から誰もいなくなり、残ったのは私一人。しかもその一人も、なぜホメロスの『イーリアス』を読みたいのかと問われて、アキレスがステキだから、と答える始末。まあ、新しい世界に入っていくのは常に「男に手を引かれて」になるのは、あの頃からの私のクセでもあったのだけど。
とはいってもギリシア文学の第一人者の先生にしてみれば絶望モノだったでしょう。でも、本拠である東大には高弟たちが揃っている。それで私に対しては、実験してみる気になったとのこと。
具体的には、辞書には頼らずに用例を探すのを先行させること、になる。『イーリアス』をそのまま訳すのではなく、その中の一句にしろ、いつ、どこで、誰が、どのように引用しているかを調べることになります。
このやり方だと、調べる範囲は古代のギリシアに留まらず、ローマも、その後の中世やルネサンスにまで広がることになる。辞書を引くのはその後です。確認のためなのだから。
これを四年つづけてくれれば、その結果である卒論がイタリア・ルネサンスになるのも当然の勢い。ちなみに卒論の担当教授は、古代が専門の呉茂一、中世思想史の下村寅太郎、西洋美術史の富永惣一の三先生でした。あの頃からは何年過ぎたかわからない今になって刊行する『小説 イタリア・ルネサンス』も、その小説化でしかないのです。
(しおの・ななみ 作家)