インタビュー
2021年1月号掲載
短期集中連載『小説 イタリア・ルネサンス』をめぐって(最終回)
コロナ騒動が収束する日のために
塩野七生さんの2年ぶりの書き下ろし新作が刊行される。ヴェネツィアの外交官マルコはフィレンツェ、ローマと遍歴したのち、祖国に帰還。しかしヴェネツィアは誰も望まない戦争へと突き進んでしまう。
コロナ禍でロックダウンしたローマの自宅に籠って六百枚の原稿を書き上げた心境とは――?
対象書籍名:『小説 イタリア・ルネサンス4 再び、ヴェネツィア』(新潮文庫)
対象著者:塩野七生
対象書籍ISBN:978-4-10-118124-0
眠る前に芥川龍之介の一冊を読んでいて、「語るにおちる」とある箇所でドキッとした。著者が自作を語るに至っては、まさにこれではないかと思ったのだ。あれだけ書いておいてまだ話さねばならないことが残っているなんて、作家とはとても言えない。新作刊行時にされるのが慣例の著者インタビューとか著者自作を語るとかは、作家を職業にしていない、つまりは他に立派な本業をもつ人々が自分自身のことを書いた場合に、自作を語る意味が出てくるのではないか。
実際、職業作家の中でも力のある人ほど、著者インタビューが面白くない。それは、インタビューされる側が、どうしても乗れないからなのだ。力があるとは言えないけれど職業作家ではある、私の場合でも、こんな状態。
今日は十二月六日、全四巻になる最後の巻の本造りも終って印刷にまわされたのは十日前。その日から十二月下旬に書店の店頭に並ぶまでの一ヶ月は、書いた本人にとっては、もうジタバタしたってダメという絶望的な状態になるのがいつものこと。ついに書き上げたという達成感なんて嘘。虚脱感、喪失感、要するに緊張しつづけてきた二年間の疲労が全部出てきた感じ。日本から電話してきた読者でもある医者は言った。「塩野さん、気をつけて下さい。やることがなくなった今が一番危ない」。仕事を終えたら、免疫力も抵抗力も低下するから気をつけろということだろう。
例年ならばこの時期は帰国しているので、著者インタビューもこの時期に集中する。もうジタバタしたってダメと思っている私も、それは受ける。受けて、語るにおちるとはこのことだと思いつつも、何かは話す。何を話したかは、すぐに忘れる。出版社側の「これは宣伝ですから」という言葉に、まあいいか、とでもいう想いで受けるので、心中では宣伝にもならないと思いつつも、著者としての最低の義務は果たすわけ。
それがコロナ騒ぎで、今年はなくなった。帰国できないので、死ぬほど好きな穴子のにぎりや石巻や女川の練りものが食べられなくなったのは心残りだが、やむをえず果たす任務がなくなったのは嬉しい。と言って「波」誌上に四回書く約束は、コロナに関係なく残っている。ところがそれが、三回までは書いたのだが、肝心要の四回目に何を書いたらよいかわからなくなった。虚脱感のせいである。だが、約束を守るのは職業作家の条件でもあるのでこれを書いているのだが、インタビューされているわけでもないので、この回は全四巻中でもまったくふれていない事柄を書くことにしたのである。
まず、これこそ宣伝ではないかと思いながら書くのだが、「小説 イタリア・ルネサンス」と銘打ったこの全四巻の実用的効用について。
いまのヨーロッパは事実上のロックダウン下にあるので、日本からイタリアには来られない。イタリアへの旅が不可能な状況下でルネサンス時代のイタリアを旅するのに、この全四巻は愉しい上に役にも立つ、と著者は思っている。だから、日本で静かにしていなければならない間に、全四巻を読んで下さい。各巻にあげたカラーページの数多くの芸術作品が、書物を読みながら旅するあなたの道案内になってくれるだろう。この種の旅には読む側の好奇心と想像力があってこそ効力も増すのだが、昔の西洋史をとりあげた私の著作に慣れたあなたには、それも充分にあると思うけど、どうでしょう。
そうこうしているうちに、年も変わって春が来る。その頃にでもなれば、コロナ騒ぎも一応は収まっているだろう。日本からイタリアへの直行便も再開しているかも。そうしたら、この四巻を持ってイタリアにいらっしゃい。そのときのために、カラーページでお見せした絵や彫刻や建造物が、どの国のどの美術館に所蔵されているかも書いてある。また、大画面ならばその寸法も。いずれも、芸術家たちが精魂こめて立ち向った結果である最高の傑作に迫るための一助として、出版社側が渋るのも気にせず私が入れさせたのだった。
そして、コロナ騒ぎが収まった後にイタリアを訪れた人には、より実用的なことも進言したい。その一つは、ブラーノ島で産するマルヴァッジア種の葡萄酒の「ヴェニッサ」(Venissa)。ただ美味しいだけでなく、産出量も少ないので相当に高価。ホテル・グリッティでの二人分の夕食は五万円もしたが、その五分の二までがわずか五十ccのこの酒だった。しゃくだから、小説の中では主人公愛用の酒にしたのです。
もう一つは、ヴェネツィアのフェニーチェ歌劇場前の広場の一画にある「マーチャント・オブ・ヴェニス」という名の店で売っている香水。ここではあらかじめ調合した香水も売っているが、色々の香水を調合するのがオリンピア式で愉しい。
作品とは、多くのことも愉しめるものであってよいとは思ってきたが、今度の全四巻では、そのほうの想いまでも、入れちゃったのでした。
(しおの・ななみ 作家)