書評

2021年1月号掲載

「最低限の礼節」から出発しよう

森本あんり『不寛容論 アメリカが生んだ「共存」の哲学(新潮選書)

宇野重規

対象書籍名:『不寛容論 アメリカが生んだ「共存」の哲学(新潮選書)
対象著者:森本あんり
対象書籍ISBN:978-4-10-603860-0

 本書のタイトルは『不寛容論』であって『寛容論』ではない。この書名を選んだ理由については「あとがき」で触れられているが、この選択は実に深い意味を持っているように思われる。
 寛容についての書物というと、とかくジョン・ロックやヴォルテールの著作から始まり、寛容の意義と重要性を説き、今日直面している課題や問題を論じて終わる、というパターンになりがちである。ところが驚いたことに、本書の最大の主人公はロジャー・ウィリアムズという、日本の読書人には必ずしも馴染みのない北米植民地の神学者である。ロックやヴォルテールはあまり登場せず、しかもこれでもかとばかり「不寛容」なエピソードが登場する。その意味で、本書は実に異色の寛容論なのである。
 ここに著者の深いねらいがある。例えば「わたしはあなたの意見に反対だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」というヴォルテールのものとされる言葉がある。実に美しいが、いささかカッコ良すぎる気がしないでもない。何より寛容という価値それ自体を絶対視していて、不寛容な人や集団に対して実はあまり「寛容」ではない。
 これに対して、本書では、不寛容な側にもそれなりに理由があるのではないか、というところから出発する。人や集団がつねに他者に対して不寛容なわけではない。不寛容さが前面に出てくる場合には、それなりの理由があることが多い。まずはそれを理解してみよう、というのが著者のスタンスである。
 例えば、ウィリアムズが活躍した植民地時代のマサチューセッツを考えてみよう。「ピルグリム・ファーザーズ」として神話化されているように、この地を最初に訪れたのは、本国である英国で宗教的に迫害されたピューリタンと呼ばれる人々が多かった。
 ピューリタンは信教の自由を求めて新大陸に来たが、自分たちが主流派になると、今度はバプティストやクエーカーらを迫害するようになる。信仰を実現するためにこの地に来たのだから、ここでは自分たちの思うようにやっていきたい、それに同意する人だけに加わってほしいというのがその理屈である。わからないではないが、迫害を受けた側が今度は迫害する側に回るという逆転が見られる。
 ウィリアムズは、このような状況にあって、極めて興味深い姿勢をとった。彼は熱烈なピューリタンであり、英国国教会との妥協を徹底的に批判する一方、先住民と親しく交流し、彼らの権利や信仰を擁護した。国王の名の下に彼らから土地を奪い、それをキリスト教によって正当化することを、彼は絶対に認めなかった。信じていない人に無理やり宣誓をさせ、宗教的な行動を強制することも、有害無益であると確信していた。
 やがてウィリアムズは追放され、先住民との合意に基づき、荒野に新たな植民地を建設した(後のロードアイランド)。実はそこからが傑作である。新たな植民地にはキリスト教の少数派のみならず、ユダヤ教徒、さらにはアナーキストと呼べるような人々が集まるようになる。それぞれ勝手な主張をする人々を前に、今度は管理者の立場についたウィリアムズは散々苦労させられることになった。
 そうなると、異質な他者の尊重などと言ってばかりもいられない。ウィリアムズも彼らへの不満を隠さず、激しく論争するが、結果的に革新的な政教分離の原則を打ち立てていく。この意外な過程が本書のハイライトとなるが、実に人間的である。自分の好む考えには寛容になれても、自分には誤っているとしか思えない考えをどう受け止め、共存するか。ここに問題の中核がある。
 著者の最大のメッセージもこれに関わる。自分の評価しないものを尊重することは難しい。それでも相手を邪魔したり、罵倒したりすることなく、最低限の礼節をもって対応することが肝心ではないか。異質な他者を愛し、敬意を持てとまでは言わない。それでも、違和感や嫌悪感を伝えるにしても、礼節をもって会話を続けるべきではないか。そこから出発しようとするのが本書の考える寛容論である。
 現在、世界では社会的分断が進み、暴力さえ辞さない不寛容が拡大している。日々、ネット上で目にするのも、相手の人格を全否定する言葉ばかりである。そんな時代に最低限の礼節の確立を説く本書は、一見華々しくはなくても、深い示唆を与えてくれるのではないだろうか。

 (うの・しげき 東京大学教授)

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