書評
2021年2月号掲載
科学的で、あまりにも哲学的なウナギの本
パトリック・スヴェンソン『ウナギが故郷に帰るとき』
対象書籍名:『ウナギが故郷に帰るとき』
対象著者:パトリック・スヴェンソン/大沢章子訳
対象書籍ISBN:978-4-10-220171-8
いったいこれは何の本なのだろう。そもそもウナギを題材とした本を、どれくらいの読者が本屋さんの店頭で手に取るのだろう。そもそも私はなんでウナギの本の書評なんぞ書いているのだろう。
クリスマスから正月休みにかけて、この本のゲラを読み耽った。読み進めるうちに、この3つの疑問のうちの2つまでは自分の中で納得がいった。
この本は科学書であり、著者の回想録でもある。ヨーロッパウナギの生態や環境悪化などによる絶滅の危機、さらには、謎に包まれたウナギの生態解明に悪戦苦闘してきた科学者列伝みたいな部分もあり、読み応えがある。
5章では、精神分析で有名なフロイトが若かりし頃、ウナギの研究に没頭し、思うような結果が出せなかったエピソードが紹介される。そして、ウナギとの出会いが、後に独特の精神分析の流儀へとつながっていったと著者は考える。
「ウナギは、ジークムント・フロイトの追究をすりぬけた。おそらくそれが、彼が最終的に純粋な自然科学を捨てて、より複雑で数量化できない、精神分析という学問分野を選んだ一つの理由だろう」
海洋生物学者・作家レイチェル・カーソンの『潮風の下で』で、ウナギが擬人化されて描かれていることが13章で紹介されるが、著者は、こんな感想を洩らす。
「カーソンは動物に感情移入し、それが動物を擬人化する勇気と力を彼女に与えた」
そして、海と生き物への深い愛情が、後にカーソンをして環境運動へと突き動かす動力源になったのだと分析する。
カーソンが出てきたところで、私は自分がなぜこの本の書評を書いているのかを理解した。私はカーソンのファンであるし、科学を描く作家という点で、偉大な先輩だとも考えてきた。そして、このウナギの本は、あきらかにカーソンの系譜に連なっている。スタイルは大きく異なるが、個人的な感情と科学的に正確な事実とをバランスよく本に詰め込んでいる点は共通している。
著者は、科学者ではなくジャーナリストである。しかし、なぜ初めて書いた本の題材がウナギなのか。それは、本書の回想部分を読み進めるにしたがって明らかとなる。労働者階級出身の父親と、(長じてインテリの仲間入りをした)著者の絆が、子どもの頃のウナギ釣りなのだ。社会の下層で暮らすことを強いられた親子がスリル満点の「密漁」をする場面に、社会構造や運命に対する著者のスタンスが透けて見える。
「たまに、不法侵入してウナギを釣ることがあった。(中略)向こう岸の漁業権は町のフィッシングクラブのものだった。川の向こう岸は、僕たちにとっていわば夢の世界だった」
私はウナギを釣ったことがないが、北欧の自然の中に入り込み、まるで自分がウナギを手でつかんで、さばいて、食べているかのような錯覚に陥るほど、その描写は活き活きとしている。
それにしても、これだけ身近でありながら、長い間、どこで産卵しているのかもわからず、いまだに完全な養殖にすら成功していない、謎に包まれたままのウナギは、このままでは絶滅するのではないかと言われている。また、なぜ、ウナギが絶滅に瀕しているのかも、実は謎に包まれている。おそらく、人間の活動による環境破壊のせいで、ウナギは死に絶えようとしている。川は護岸工事やダム建設などによりウナギの遡上を阻むし、気候変動で海流が変化し、ウナギは故郷の海から遠く離れた場所へ流されてしまうのだ。
短くだが、ニホンウナギの研究状況と養殖についても触れられている。日本人はウナギが大好きだが、ヨーロッパウナギとは全く別の海で産卵する。養殖技術についても、おそらく日本のほうがヨーロッパよりも進んでいるし、ウナギの生態研究も先を行っている。だが、それでも多くが謎のままなのだ。
本書の最後で、がんで死にゆく父親の姿が描かれるとき、時間の概念があいまいとなる。時間を超越して生きているかのようなウナギの姿がそこに重なる。そもそも、時間とはなにか。永遠とはなにか。
ウナギを通じて、そもそも人間が「生きる」とはどういうことか、「死ぬ」とはどういうことかといった、さまざまな哲学的かつ科学的な問題が提起される。そして、最終的に、ウナギも父親も著者も、みなが「故郷」へと帰る。
不思議な読後感の作品だ。強いイデオロギー的なメッセージもなければ、科学的な大発見が報告されるわけでもない。だけれど、新型コロナで大変なこの時期、あらためて、生きて死ぬ「意味」について、深く考えさせられた。
で、私は、好物のうな重を食べ続けるかどうかについても、目下、思案中である。