書評・エッセイ

2021年3月号掲載

比喩通り

山田詠美『血も涙もある』

長嶋有

対象書籍名:『血も涙もある』
対象著者:山田詠美
対象書籍ISBN:978-4-10-366817-6

 少し前の拙作にこんなことを書いた。「(飲み屋で)今は『恋バナ』の時代が終わり、代わりに皆が『推し』を語る」と。
(結婚を含めての)恋愛を人生の至上価値とせず「好きなこと」を標榜する生き方を謳う表現(著作でも映像でも)が増え、ヒットしている。「推し」は多くの人にとって、悪いことではない、開放的な言葉だ。たとえばアイドルグループに過剰に入れあげるなんて「いい年をした大人」が公言できるものではなかったのが、堂々としてよくなった。僕が学生時代から埋没したテレビゲームや漫画などの「ネクラ」なオタク文化もカジュアルに「推し」を公言する人が増え、ずいぶん風通しがよくなった。
 一方、今や「推し」がないと人生を謳歌していないような、なんだかソワソワした気持ちになる。そして、あれだ。かつて飲みの席で常に盛り上がった、あの軽薄な「恋バナ」はどこにいったんだ?(単に僕が衰え、恋愛の「現場」から遠のいたせいで耳にしないだけかもしれないが)。
 皆、どうしようもなく人を好きになることで生じる気持ちを、ときに冗談めかして、照れゆえに直截に、それでも吐露してみるという行いは、本当に下火になったのか?

 山田詠美の最新作『血も涙もある』をめくり、まずはほっとする。よかった、ここでは老若男女、みんな恋愛の渦中だ。ちゃんと風通しよくなく、人間が見苦しくも勇ましく、つまり面白い様態である。
 今作の作中人物たちは(これまでの山田作品の人物たち同様)言葉を大切にする。「言葉を大切に」という言葉は、丁寧で上品な言葉遣いをせよ、という意味に聞こえるが、そんなマナーのようなことでなく、もっと厳格に、言葉に厳密たらんとする。

  昔、よその家に引き取られる子供を「もらわれっ子」と呼びましたが、差別的な悲しい響きがあり、使うのがためらわれる言葉です。

 それなのに「良い奥さんもらった」はいいのか、と太郎はひっそり口をとがらせる。セレブの妻を持ちながら浮気を繰り返し、ついに妻の弟子との恋に溺れてしまう太郎。いつもは太平楽にしているが「痒いところに手が届くって、料理に使う言葉か?」などと、意味の正否だけでない、譬えの「似合う・似合わない」までを潔癖に考えている。

  この御時世、年を取るのを「年齢を重ねる」なんて言う。年増を「熟女」なんて気持の悪い名称でもてはやしたりする。

 十も年下の夫、太郎の浮気を黙認しているカリスマ料理研究家の喜久江も、たとえ「もてはやされて」いてさえ、世間に蔓延る言い換えを許さない。「不倫」という「メジャー」な単語にも、妻、夫、愛人が三者三様に言及をしてみせるが皆、通り一遍の定義には染まらない。
 小説や戯曲では、章ごとに話者の代わる構成を音楽の輪舞形式に喩える。通常のそれは、妻の思う夫と、夫の本音に著しいズレがあったり、片方の隠し事を片方は見透かしていたりすることで「意外性」や「皮肉」が生じる(ことが面白みになる)。この作品にもズレや隠し事や見透かしはあるが、皮肉には感じない。三人の輪舞は恋愛の同一チームで言葉のラグビーボールを回しあっているかのようだ。三人が共有するリズムを読者は感じ取る。それはありきたりな輪舞形式で得られる皮肉よりずっと面白い。
 この、リズムを伴って発揮される厳密さは山田作品を貫く基調のようなもので、読者はときに(言葉に縛られていた古い考え、先入観を打破してもらって)勇気づけられ、ときに(安直な言葉で片付けようとしていた気持ちを正されるから)ピリッと緊張させられることになる。
 題名もそう。「血も涙もない」というお決まりの慣用句に対し、もちろんそれは比喩と分かっていつつ、からかってみせる。浮気に没頭して罪悪感など抱かぬ男女にも、血も涙もある、と。それは当初、生理の血と玉ねぎで出た涙という、慣用句への「おちょくり」として現れるが、終盤では大の大人の泣きじゃくりとなって現れる。
「喜久江は、情け深い人だね」という太郎の言葉に「深情けよ」と、ここでも徹底して言葉を正しく言い直す、その「訂正」が、圧巻だ(その差異の説明だけは書かれない)。そして無情ともいえる結末にあっても、飄々としなくていいのだ、と夫の重荷を下ろさせる作者には比喩の通り、血も涙もある。

 本作には「推し」という「言葉」は出てこない。でもそれは、僕のような半端な中年が新しい価値観に反射的に反発しているのとは違うように思う。作者は言葉を大事にするゆえ、新たな語を簡単には取り扱わず、注意して観察し咀嚼しているのだろう。いつか作者なりの洞察とともに正しく面白く、取沙汰されるかもしれない。それも読んでみたい。

 (ながしま・ゆう 作家)

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