書評・エッセイ

2021年6月号掲載

フェア新刊 クロスレビュー

「洞察」と「愉悦」があふれる本

バッハからショスタコーヴィチまで音楽は何を語るのか

岡田暁生

対象書籍名:『社会思想としてのクラシック音楽』
対象著者:猪木武徳
対象書籍ISBN:978-4-10-603867-9

「経済思想の泰斗による異色の音楽論」という紹介がはばかられるほどに深い本である。極めて包括的かつ体系的な音楽社会学論である。気ままにお気に入りの曲を選んで思索をめぐらすエッセイとは違う。音楽と宗教、楽譜の出版とマーケットの誕生、中間市民の台頭と音楽における経済構造の変化、指揮者と統治の問題、全体主義国家における音楽のありよう、国民楽派におけるナショナリズム等々、「音楽の近代」を考えるとき外せない主題が、網羅的に考察される。この一冊で近代音楽史の流れとポイントをあらかた理解できる。しかも作品や伝記事実やデータについての知識と洞察は、完全にアマチュアの域を超えている。
 しかしながら本書は同時に、絶対にアマチュアの手からしか生まれ得なかったものでもある。私がなにより圧倒されたのはそこだ。どのページにも無為の知的愉悦があふれている。私のように音楽研究を職業にしてしまった人間にはこれが出来ない。アマチュアの語源は「アマートル」=「愛する人」だった。この言葉が「素人」という否定的な意味に転じるのは、まさに本書の対象たる近代市民社会に入ってからのことだろう。「愛」などという何の利潤ももたらさないものは、近代社会からは消し去られていくのだ。その中で音楽こそは、無私の愛と愉悦の最後の避難場だったともいえよう。してみれば、音楽について敢えてアマートルの立場から、しかし真正面から論じることで、著者は暗黙の近代批判としたかったのではないかとも思えてくる。
 さらにいえば本書の射程は音楽史論にとどまるものではない。これは実は音楽史に託されたデモクラシー論でもあるのだ。中心的に扱われるのはバッハからマーラーまで。啓蒙時代から第一次大戦までである。超越者(神であれ王であれ)を否定し、「すべての人間が自由で平等な個だ」という理念を人々が信じたこの時代を、二十世紀の全体主義国家(ショスタコーヴィッチのソ連)を参照しつつ、市民時代の最末期たる今日から著者は批判的に振り返る。
 印象的なのは、「社会は独立した個人が集まって作るものだ」という近代のイメージを、著者が真正面から否定することだ。著者によると事態は逆だったのであり、まずあったのは集団(社会/共同体)であって、それが近代における個の意識の目覚めとともに、徐々に個人へと分解されていったとされる。経済思想を専門とする著者がなにゆえ音楽にここまでの情熱を傾けてきたか、理由は明らかだ。近代市民社会において音楽には、個に分解された群衆を再び「全体」として統合するという、途方もない役割――かつて教会が果たしていた役割――が与えられるようになった。ベートーヴェンの『第九』は好例だ。デモクラシー論が「社会における個と全体の均衡」についての思索であるとすれば、必然をもって音楽が思考モデルとして選ばれているのである。
 抽象的であると同時に、極度に感覚的であるという不思議な両義性の故に、音楽は超越世界の啓示に最も適った芸術ジャンルであった。それはバラバラの個の群れに向かって「高きところにある不可視のあれに耳を傾けよ」と呼びかける。かくして本書では「超越」が音楽論とデモクラシー論を通約するモチーフとなる。著者いわく自由と道徳はセットであり、道徳の刷新なしには自由も平等も存在しない。そして道徳を保証するのは広い意味での宗教であって、ここには美や理想や価値といったものも当然含まれる。著者はそれらに共通するのが「ずれ」だという。未来の理想を描くことも、他者へのおもんばかりも、一枚の絵に美を感じることも、そして祈ることも、目の前の現実から「ずれ」た、その向こうにあるものを構想する力なのだ。そして「天の声を聴く」という言い方をするように、音楽こそ彼方の何かを指し示す芸術の最たるものである。
 だが大衆社会が本格的に始まる一九二〇年代、超越的ヒエラルキーの啓示とは根本的に相容れない音楽原理が生まれてくる。それがシェーンベルクの十二音技法だと著者は考える。「すべての一人が一票」の普通選挙制の原理に似て、そこではオクターヴ内の十二音が完全に等価に扱われる。特定の音の優先使用はヒエラルキーを作り出すものとして排除される。かくして本書は十二音技法への懐疑的言及で締めくくられる。平等しかないデモクラシーと同じく、シェーンベルクによるすべての音の平準化は、混沌とした不協和音しか生み出さなかったのではないかと示唆されるのだ。
 つまるところ著者は、音楽論に託して「自由で平等な個人と両立させる形で、人はいかに超越を再び見出せるか」と問うているのであろう。あまりにも重い問いかけである。思い出されるのは「無神論者となった現代人が、いかに神と格闘し、再び祈ることを見出すか」という一節が、ほかならぬシェーンベルクの書簡にあることだ。逆説的にも十二音技法は、超越の希求の果てに彼が辿り着いたものだった。そして事実、演奏次第で彼の音楽には不思議な「美」が宿る。ただしそれは尋常ならざる意志と能力と献身を要求する......。このことを音楽研究を生業とした者の立場から示唆して、著者へのささやかな応答としたい。

 (おかだ・あけお 音楽学者・京都大学教授)

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