書評

2021年6月号掲載

フェア新刊 書評

東野英治郎「黄門さま」の遺伝子の突然変異

片山杜秀『尊皇攘夷 水戸学の四百年

平山周吉

対象書籍名:『尊皇攘夷 水戸学の四百年
対象著者:片山杜秀
対象書籍ISBN:978-4-10-603868-6

 日曜日の夜、渋沢栄一が主人公の「青天を衝け」を見ていたら、「水戸の烈公」こと徳川斉昭に扮した竹中直人が墨痕荒々しく、白い紙に筆を叩きつけて大書するシーンが出てきた。禍々しく、不気味な「尊攘」の二字。幕末の志士たちを扇動するキーワード「尊皇攘夷」である。おやおや、これではNHK御自慢の大河ドラマが、まるで片山杜秀の新著『尊皇攘夷 水戸学の四百年』の予告編みたいではないか。その意外性、いや、著書の成り立ちからいえば、その必然性がなんともおかしく感じられた。
 徳川御三家のひとつ「水戸藩」の特異な性格を決定づけたのも、明治維新を切り開く「水戸学」を創始したのも水戸徳川家の第二代藩主「黄門さま」こと徳川光圀(みつくに)だった。黄門さまといえば東野英治郎、それはある世代の日本人誰もが共有するイメージであろう。昭和四十四年(1969)から始まった東野「黄門」は十数年も続く長寿番組になったのだから。
 昭和三十八年(1963)生まれの著者は、小学生にして東野「黄門さま」にハマった。それから半世紀近くもたって、東野「黄門さま」の遺伝子が突然変異して、本書を書かせたのだ。並みのハマり方ではなかったのである。筋金入りの左翼新劇人で、映画の名脇役だった東野英治郎の主演時代劇がスコブルの「副反応」を引き起こした。近代日本右翼思想史という特殊分野に通暁する著者を、江戸時代の「水戸」へと引き寄せたのだった。
 水戸学の大事なキーワードとしては「国體」もある。終戦時のポツダム宣言受諾に際して大議論となった「国體護持」の「国體」である。近代日本を呪縛したキーワード「国體」はそもそも水戸学由来である。「国體」を巻頭で謳った会沢正志斎の『新論』は危険な書として発売を差し止められたが、密かに写本として出回っていた。吉田松陰は九州で『新論』を読み、憧れの水戸を目指す。途中で立ち寄った神戸の湊川古戦場には、南朝の忠臣、「七生報国」の楠木正成の墓碑があった。墓碑を建立し、「嗚呼忠臣楠子之墓」と書したのが徳川光圀であった。松陰は短い生涯の中で何度も湊川を訪れ、感激の涙を流すことになる。
『尊皇攘夷 水戸学の四百年』は、近世の複雑怪奇でドラマチックな思想劇が、血沸き肉躍る怒濤の語り口で展開される、まったく新しい歴史本である。もともとは「新潮45」に連載され、休刊による中断の後に「新潮」で連載が再開された。その間、私は毎月真っ先にそのページから読み始めた。こちらの浅い知識では対抗できるはずもないのだが、著者の圧倒的な語りの海に翻弄されるのを何よりも愉しみにしていたからだ。テレビの時代劇のようにメリハリがあって、江戸の仕組みと人間と思想までを身近に感じさせる。チャンバラシーンはほとんどないにもかかわらず、展開は活劇調で、切れ味は滅法鋭い。正史『大日本史』編纂に二百数十年をかけた水戸藩の歴史を、稗史として描き切ってしまう力業といえばいいのか。
 水戸徳川家は黄門さま以外にも強烈なキャラクターが多い。「攘夷」を怒号する第九代斉昭、斉昭の息子で「最後の将軍」となる徳川慶喜、斉昭のブレーンとして幕末の政論をリードした藤田幽谷・東湖父子、『新論』の会沢正志斎らを輩出しながら、明治の御代になんら存在感を示せなかったのが「徳川御三家」末弟の水戸藩であった。
 本書には、東野「黄門さま」出現以前、著者がまだ生まれていなかった邦画全盛期の「水戸黄門」たちも"特別出演"している。月形龍之介の東映版「水戸黄門」、長谷川一夫の大映版「水戸黄門」である。彼らの「漫遊」先は徳川光圀と水戸学に深く関わっている。月形龍之介主演の『水戸黄門・天下の副将軍』の行き先は四国の讃岐である(助さん格さんは東千代之介と里見浩太朗)。長谷川一夫主演の『水戸黄門海を渡る』の行き先は北海道の松前藩である(助さん格さんは市川雷蔵と勝新太郎)。
 史実の光圀は讃岐に行かなかったのに、時代劇の黄門は遠路、何度も足を運ぶ。讃岐松平家の殿様・松平頼重は光圀の実兄で、本来ならば水戸徳川家の二代目を継ぐべき人物だった。司馬遷『史記』の伯夷叔斉(はくいしゅくせい)兄弟の「国譲り」伝説に感激していた光圀は、水戸藩三代目の座を兄の子に譲り、自らの子に讃岐松平藩を継がせた。儒学の「義」を貫く光圀の振る舞いに感動したのが、異民族によって滅ぼされた明国からの亡命儒学者・朱舜水である。光圀と朱舜水の結びつきが、水戸学を形づくっていく。
 光圀は北海道にも渡っていないが、長谷川「黄門」が行くのには必然性があった。光圀は巨大な帆船を建造し、蝦夷地を探検させる。北の大地は鎖国日本の国防上の要地だったからだ。光圀の先見性は「烈公」斉昭によって過激に反復される。斉昭は水戸版「天保の改革」を実施し、非常時のモードにいちはやく突入した。慢性的財政難をもかえりみず、西洋式の砲台を作り、西欧列強に軍事的に張り合おうとする。蝦夷地で殖産興業にいそしみ、豊富な資金を獲得して強力な軍隊を持ちたい。幕末の水戸藩は国防思想の先進地となり、「軍事大国化」に先鞭をつける。黄門さまの足跡を辿る道筋が、そのまま水戸学の誕生と急進化を語る仕掛けになっている。
 テレビや映画の例ばかり挙げてしまったが、著者が水戸学を解明し、語る手がかりは何もかもである。水戸偕楽園の梅も、水戸名産の梅干しも納豆も登場する。「国性爺合戦」も「太平記」も、三種の神器も富士見坂も、思想史もエンタメも、著者の博覧強記が「総力戦体制」となって動員されている。
 司馬遼太郎賞を受賞した『未完のファシズム』以来、著者は「持たざる国」日本の無理が祟ったのが近代日本であると力説してきた。その歴史の源流に、「持たざる国」水戸藩の経済的背伸びと思想的急進化があったという著者の問題意識は濃厚に伝わってくる。近代日本の破綻は、やはり「尊皇攘夷」の当初からインプットされていた――。
 そればかりではない。冒頭の数回からは、幕末の志士に影響を与えた藤田東湖『回天詩史』の危機感を、同時代の世界地図の中で語り直すといった趣きがある。徳川慶喜の不思議な行動も見事に解明される。水戸学過激化の思想構成もクリアに整理される。天皇絶対の左足と、「天皇→将軍→水戸」の三段階を守って将軍に服従する右足、その左右二本足で立っていたのが正統な水戸学(水戸学右派)だった。そこに左足だけで立つ水戸学左派という異端児が出現する。「倒幕もできる水戸学」が誕生し、桜田門外で大老(「臨時独裁官」)井伊直弼を暗殺する。左派は斉昭や会沢正志斎をも批判し、諫める。水戸は統制不能に陥っていく。
 本書のクライマックスは「第六章 天狗大乱」以降に悲劇の主人公を割り当てられる水戸徳川家の支藩宍戸藩主・松平頼徳の「切腹」である。松平頼徳の事績は茨城県在住という著者の地の利を活かせたのか、著者の巨大な書庫の本の霊が蠢いたのか、詳細に辿られる。その「切腹」した殿様の実妹の曾孫にあたるのが三島由紀夫なのだ。
 幕末の水戸藩が壊滅的な打撃を蒙ったのは、「天狗党の乱」であった。諸生党、水戸学右派、水戸学左派(天狗党)が入り乱れる中で起こった藩論分裂の中で、十代目藩主・徳川慶篤(慶喜の兄)が名代として水戸へ派遣したのが松平頼徳だった。頼徳の悲劇については大佛次郎『天皇の世紀』、吉村昭『天狗争乱』の二名著にも書かれているが、地方史などをもとに著者が抉り出す歴史はさらに悲惨である。
 頼徳は目的地である水戸城に乗り込むのを躊躇してしまう。そのために有利な展開を逸する破目になる。水戸の城内には、斉昭公未亡人(有栖川宮吉子女王。慶篤・慶喜兄弟の母)が諸生党によって人質とされていたのである。もっと厄介だったのは、水戸藩主・徳川慶篤が「よかろう様」という綽名のある暗君であったことだ。
「よかろう様」とは、優柔不断のトップの典型であり、「よきにはからえ」と言いつつ「責任回避を第一義」としている。「おまえの提案の中身についてはそうとも思うけれども、そうではないかもしれず、しかし、とりあえずはおまえのやりたいようになるべく任せてみるが、ダメなときはおまえが腹を切るように。こちらも他の提案がくれば、途中で乗り換えるかもしれないが、悪く思わぬように」。著者による「よかろう」の超訳である。「よかろう」は「古代からの天皇政治の核心」をなす言葉「よさし」に通じているという。今につづく数多い日本組織のトップが松平頼徳の上にいたといえよう。
 松平頼徳は邪魔な駒として切り捨てられた。収拾役のはずが途中から天狗党の仲間と見做され、幕府に楯突いた謀反人として死を賜わる。宍戸藩はお取り潰しとなり、大勢の家来も切腹となるか、自害して果てた。大名が死罪となるのは江戸時代では稀有であった。
「[頼徳は]頭を垂れて長く苦しんだというから、まともな介錯を伴わなかったのであろう。その様は、討伐軍と諸生党の幹部によって見物され、周囲には諸生党の侍が槍や刀を手にして取り巻いていたというから、厳かな雰囲気とは程遠く、野蛮で残酷で、たとえば石井輝男監督の東映残酷時代劇映画の一コマのような眺めであったのだろう」
 幼い三島をサディスティックに溺愛し、三島の精神生活に大きな影響を残した祖母は、松平頼徳の姪であった。少年の三島は祖母の口から頼徳の無念を聞かされていたろう。頼徳と三島の関係については、山内由紀人『三島由紀夫 vs. 司馬遼太郎』、猪瀬直樹『ペルソナ』などでわずかに言及されただけであった。著者は市ヶ谷台の三島の最期に「尊皇攘夷の水戸学」を見ている。自衛隊員にヤジられながら最後の訴えをする楯の会隊長三島由紀夫の頭部には「七生報国」と書かれた鉢巻きがあった。三島はバルコニーでの演説をおえると、古式にのっとり切腹した。
 三島と東大全共闘との討論は本だけでなく、昨年は映画にまでなったが、単行本『文化防衛論』には東大以外の三大学での学生とのティーチ・インが収録されている。一橋大、早大までは順当なのだが、もう一つの大学が地方国立大の茨城大だった。著者は茨城大での三島発言を引用していて、そこでは三島は自らに流れる「水戸の血」を意識していると明言した。『文化防衛論』の「あとがき」を見ると、三島は楯の会の「思想的許容度」を、「右は水戸学から、左は民社党までである」と、より直截に言及している。「水戸学の四百年」は、昭和四十五年(1970)十一月二十五日の三島の死にまで及んでいる。
 近代日本を解明する著者の真骨頂が『尊皇攘夷 水戸学の四百年』である。

 (ひらやま・しゅうきち 雑文家)

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