書評
2021年7月号掲載
自己を縛るものはなにか
三国美千子『骨を撫でる』
対象書籍名:『骨を撫でる』
対象著者:三国美千子
対象書籍ISBN:978-4-10-352662-9
三国さんの小説を最初に読んだのは、表題作と共に収められた「青いポポの果実」だった。「群像」2020年1月号で町屋良平さんと宮下遼さんと共に行った創作合評の課題作の一つで、三ヶ月連続で濃密な純文学を読んできた中でも、最も濃密な作品だった。一人称「僕」の十歳の少女が母親のことを雌犬と呼ぶ冒頭の場面から衝撃的で、閉ざされた世界で行われる子どもたちへの残酷な仕打ちが体感として迫る描写に圧倒された。過去回想の形で語られる体験は深い悲しみに裏打ちされているが、人を理解し、共感しようとする試みによってより傷つく様が痛々しい。他者の女性性への嫌悪が、自分自身の女性性の嫌悪に結びつき、苦しむ。魂の暗い底からの叫びを感じた。
デビュー作の「いかれころ」と、表題作の「骨を撫でる」は、大阪府の南部の旧家に生まれた娘が分家を譲り受けて婿養子を取るという設定、住人達の旧態依然とした差別的な価値観や閉塞感が共通している。しかし、続編のようなものではなく、役者とカメラを変えて、異なる価値観から同じ時代の気配を改めて描き直した並行世界のようである。
「いかれころ」の主人公は一人称「私」で描かれる幼児の奈々子で、昭和五十八年のできごとが過去回想の形で語られる。一方、「骨を撫でる」の主人公は五十歳になるふき子で、2001年の出来事が三人称で語られる。ふき子は、実家の近隣に建ててもらった分家屋敷に婿養子を迎え、子どももいる独立した家庭を持ちながら、年老いた両親に未だ依存している。反面、母親が弟を甘やかしている点など、様々な不満も抱えている。家族間の軋轢を描くという面は、多くの先行作品で試みられてきたことだが、この作品は、一方的な情念に陥ることなく、各人物への冷静な視線によって至極フラットに描かれている。
《気づいたら五十歳だった。おじいちゃんが勝手に家建てたせいで、見合いせなあかんようになったんや、とふき子は長女の日南子にこぼした。一緒に退職した同期は他の公立幼稚園に再就職したのに。働きながら出産し子育てし、共稼ぎで家を建てる。なんでそない女ばかりが損なことしやなあかんの。無意識の内にふき子は、父親のせいで無理矢理分家させられた気の毒な娘として振舞う方が得策だと踏んだのだった》
ふき子のこれまでの生き方がおおまかに伝わり、思ったようにいかなかったことを誰かのせいにする、主体性のない人物であることが容赦なく描かれている。ふき子は、楽な方を自ら選んで生きてきた自覚があり、閉塞的な世界を甘受している。抑圧を受け入れ、抑圧する側の人間の意識に溶け込んでしまう構造をシビアに突いてもいる。いかがわしいグッズを集める卑屈な夫、お金を無心する弟、母親の突然の大病と、家族に関わるいくつもの困難に見舞われつつも、内に籠ることなくどこか身勝手で楽天的な人物として、ざっくりとした責任感で対処していく姿は、小説の予定調和を気持ちよく突き抜ける。
「骨を撫でる」場面は二度、象徴的に描かれる。一つは、ヘバーデン結節によって変形してしまったふき子の指を、弟の明夫が《しげしげと見つめ、ふくらんだ人差し指の骨をさも珍しそうに何度も撫でた》場面。二つ目は、明夫に背負われた母親の敏子の背中の骨をふき子が撫でる場面。敏子は再生不良性貧血を患っているが、明夫の不祥事をごまかすために命がけで病院を抜け出してきたのだった。この病気は、骨髄の造血機能が減弱する骨の病気でもある。互いの加齢と命の弱まりを実感しつつ、今確かにこの世に存在していることを骨を通じて確認している気がする。ふき子は、母のゆがんだ骨に自分を重ね、自分のゆがんだ骨を熱心に触った弟もまた自分を重ねたのではないかと思う。
この時、《明夫が家のお金を浪費し、敏子がそれを補おうと奔走するのを、ふき子は指をくわえて眺める。これまで何度も倉木の家で繰り返されてきたことだ。そのひもじいような関係を、性懲りもなく続ける。なんでやろ。そんなもん血ぃや。そう敏子ならこともなげに言うだろうか》とふき子はふと思う。空転するこの悲しい関係性に「ひもじい」という形容を与えた言語感覚に痺れる。
土地に、家族に、がっちりと縛りつけられているように見えて、実は自らの心の飢えが自らを縛っているのかもしれない、という気づきに胸を衝かれた。太い問いのある、今読むべき一冊である。