書評
2021年9月号掲載
サリンジャーの観覧車
竹内康浩・朴舜起『謎ときサリンジャー「自殺」したのは誰なのか』(新潮選書)
対象書籍名:『謎ときサリンジャー 「自殺」したのは誰なのか』(新潮選書)
対象著者:竹内康浩・朴舜起
対象書籍ISBN:978-4-10-603870-9
私はスティーヴン・キングの「小説家にとってのテーマ=スイカ説」というのを気に入っていて、しばしば引用させてもらっている。
どういうことかというと、小説家というのは、小説を書くというドライブそのものが楽しいのであって、別にスイカを運ぶために車を運転しているわけではない。だが、車のトランクには空きがあるので、スイカも積める。小説家にとってのテーマは、このスイカのようなものだ、というのだ。作家によっては、スイカを運ぶのが目的の人もいるだろう。スイカが破損しないように、緩衝材で包んだり立派な桐の箱に詰めて大事に助手席に乗せる人もいるかもしれない。が、私はキングと同じく、テーマには頓着しないほうである。気がついたら乗せていた、そういえば隅っこに入れてたなあ、という感じ。
そもそも、小説を読むということ自体、ドライブのようなものだ。
作家が運転する車の後部座席に座って、運転席の作家の後頭部を見ながら一緒に旅をする。いい車に乗ってるなあ、とか、内装がダサいね、とか、運転荒っぽいね、とか、スピード出しすぎ、あるいは慎重すぎ、ずいぶん悪い道走ってるなあ、未開の道路だね、あっ、今イノシシがいた、いったいどこに行くの、とか文句をつけながら走っている。
次々と後ろに流れていく車窓の景色を楽しみ、目的地がどこなのか、どこに連れていかれるのかとわくわくする。そして、目的地に辿り着き、車を降りて伸びなんかしながら、旅の余韻を味わいつつ、あの車のトランクには何が入っていたのだろうか、と想像するわけだ。
こと、サリンジャーに関しては、皆がトランクの中をあれこれ熱心に想像してきた。それこそ、スイカなのか、メロンなのか、もしかするとパイナップルか、ひょっとしたらぜんぶ混ざってスムージー状態になっているのではないか。それどころではない、運転技術や車窓の風景、乗っている車の趣味など、ことこまかに研究され、毀誉褒貶の乱高下を繰り返してきたといってもいい。
そこに、この『謎ときサリンジャー』である。
一読、驚嘆した。まさか二十一世紀になって、こんなものを読めるとは。この本の何が画期的かというと、実は、サリンジャーは車を運転していたのではなく、彼も読者も巨大な観覧車の、車の形をしたゴンドラに乗っていたのだ、と看破したことなのである。
我々読者は、サリンジャーが運転する車の後部座席に乗っていたと思っていた。車窓の風景が変わるのを見、サリンジャーの後頭部を見ていたからだ。
だが、本当にサリンジャーが運転しているのか、と前の座席を覗きこんでみたら、そこにはハンドルもブレーキもなく、サリンジャーその人もじっと座席で腕組みをしつつ、車窓の風景を眺めているだけであったのだ。
観覧車。ゆっくりと上昇し、ゆっくりと降下する。誰でも知っているとおり、円環運動を繰り返す。その動きに、時計の針を連想しない人はいないだろう。
この本に書かれている「落下」のイメージは、観覧車の上下運動に結びつく。そして、常に同じ場所に同じゴンドラがあるように見えることは、まさしくビリヤードの球と同じ「入れ替わり」。そして、観覧車に乗っていれば、自分のゴンドラがこの先どのくらい経てばあの位置にいるか、ということが想像できる。テディの予言は、まさに「時間の海」のごとく観覧車が「見渡せる」のだから、当然であったともいえる。この先、その時にあの高さにいれば、そりゃあ落ちたら助かるまい、と。
サリンジャーも、自分が観覧車に乗っているという確信まではなかったに違いない。ゴンドラの見た目は車そっくりだし、自分も車を運転していると思っていたのだから。だが、窓の外の風景をスケッチしているうちに、うっすらと想像はしていただろう。おのれが乗っている乗り物が、大きな円環運動を繰り返しているということ、しかもその時計の針は逆戻りしていること。だからこそ、車窓のグラス家の時間がどんどん遡ってゆき、最後は幼少期のシーモアで幕を下ろすことになったのだ。
文学を読むということは、ほんとうに豊かだ。そう改めて実感できて、私はとても幸福だ。この至福を、ぜひ皆さんも一読して味わっていただきたい。
(おんだ・りく 作家)
どういうことかというと、小説家というのは、小説を書くというドライブそのものが楽しいのであって、別にスイカを運ぶために車を運転しているわけではない。だが、車のトランクには空きがあるので、スイカも積める。小説家にとってのテーマは、このスイカのようなものだ、というのだ。作家によっては、スイカを運ぶのが目的の人もいるだろう。スイカが破損しないように、緩衝材で包んだり立派な桐の箱に詰めて大事に助手席に乗せる人もいるかもしれない。が、私はキングと同じく、テーマには頓着しないほうである。気がついたら乗せていた、そういえば隅っこに入れてたなあ、という感じ。
そもそも、小説を読むということ自体、ドライブのようなものだ。
作家が運転する車の後部座席に座って、運転席の作家の後頭部を見ながら一緒に旅をする。いい車に乗ってるなあ、とか、内装がダサいね、とか、運転荒っぽいね、とか、スピード出しすぎ、あるいは慎重すぎ、ずいぶん悪い道走ってるなあ、未開の道路だね、あっ、今イノシシがいた、いったいどこに行くの、とか文句をつけながら走っている。
次々と後ろに流れていく車窓の景色を楽しみ、目的地がどこなのか、どこに連れていかれるのかとわくわくする。そして、目的地に辿り着き、車を降りて伸びなんかしながら、旅の余韻を味わいつつ、あの車のトランクには何が入っていたのだろうか、と想像するわけだ。
こと、サリンジャーに関しては、皆がトランクの中をあれこれ熱心に想像してきた。それこそ、スイカなのか、メロンなのか、もしかするとパイナップルか、ひょっとしたらぜんぶ混ざってスムージー状態になっているのではないか。それどころではない、運転技術や車窓の風景、乗っている車の趣味など、ことこまかに研究され、毀誉褒貶の乱高下を繰り返してきたといってもいい。
そこに、この『謎ときサリンジャー』である。
一読、驚嘆した。まさか二十一世紀になって、こんなものを読めるとは。この本の何が画期的かというと、実は、サリンジャーは車を運転していたのではなく、彼も読者も巨大な観覧車の、車の形をしたゴンドラに乗っていたのだ、と看破したことなのである。
我々読者は、サリンジャーが運転する車の後部座席に乗っていたと思っていた。車窓の風景が変わるのを見、サリンジャーの後頭部を見ていたからだ。
だが、本当にサリンジャーが運転しているのか、と前の座席を覗きこんでみたら、そこにはハンドルもブレーキもなく、サリンジャーその人もじっと座席で腕組みをしつつ、車窓の風景を眺めているだけであったのだ。
観覧車。ゆっくりと上昇し、ゆっくりと降下する。誰でも知っているとおり、円環運動を繰り返す。その動きに、時計の針を連想しない人はいないだろう。
この本に書かれている「落下」のイメージは、観覧車の上下運動に結びつく。そして、常に同じ場所に同じゴンドラがあるように見えることは、まさしくビリヤードの球と同じ「入れ替わり」。そして、観覧車に乗っていれば、自分のゴンドラがこの先どのくらい経てばあの位置にいるか、ということが想像できる。テディの予言は、まさに「時間の海」のごとく観覧車が「見渡せる」のだから、当然であったともいえる。この先、その時にあの高さにいれば、そりゃあ落ちたら助かるまい、と。
サリンジャーも、自分が観覧車に乗っているという確信まではなかったに違いない。ゴンドラの見た目は車そっくりだし、自分も車を運転していると思っていたのだから。だが、窓の外の風景をスケッチしているうちに、うっすらと想像はしていただろう。おのれが乗っている乗り物が、大きな円環運動を繰り返しているということ、しかもその時計の針は逆戻りしていること。だからこそ、車窓のグラス家の時間がどんどん遡ってゆき、最後は幼少期のシーモアで幕を下ろすことになったのだ。
文学を読むということは、ほんとうに豊かだ。そう改めて実感できて、私はとても幸福だ。この至福を、ぜひ皆さんも一読して味わっていただきたい。
(おんだ・りく 作家)