書評
2021年10月号掲載
新潮クレスト・ブックス タナハシ・コーツ『ウォーターダンサー』刊行記念特集
すべての物語はひとびとを渡す橋となる
アメリカの人種差別を冷徹に見つめた『世界と僕のあいだに』で全米図書賞を受賞し、
コミック原作を担当した『ブラックパンサー』は映画化され大ヒット。
いま最も注目される作家が、初めての長篇小説に挑んだ。
対象書籍名:『ウォーターダンサー』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:タナハシ・コーツ/上岡伸雄訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590174-5
はじめに、橋が崩れる。
馬車は川に落下し、黒人奴隷の青年ハイラムは御者台からとばされ、激流にもまれ溺死しかかる。気がついたら川岸に身を横たえている。失神する寸前、青い光が躍っていた。その青い光に導かれ、ハイラムの、物語をめぐる長い物語がはじまる。
アフリカからさらわれてきた先祖の思い出が、夕食や集まりのとき、まだ口々に語られる、19世紀半ばのヴァージニア。奴隷のひとりである黒人の母、奴隷たちの主である白人の父とのあいだに、ハイラムはうまれる。
「僕は変わった子供だった」。見聞きしたすべてを、記憶にとめおくことができる。一匹ずつの野犬の顔。流れてくる労働歌。奴隷のみながうちあける、ひとりひとりの来歴。
馬車の事故をきっかけに、ハイラムの新しい才能が少しずつひらかれる。遠く離れた場所から場所へ、「土地を折り畳んで」移動する能力。黒人奴隷のなかに、たまに、同じ才能を持つ者が現れる。それどころか、ハイラムの祖母はその能力を使って、五十人ほどを連れてアフリカへ帰還した。真実か伝説か。それは筋金入りの、ほんものの物語だ。
ただ、小説を読んでいる、という気がしない。ハイラム本人の、ソフィアの、シーナたちの声が、吐息が、読んでいる僕の、生きている実感にたえまなく触れる。「子供を――たぶん女の子を――」とソフィアが切れ切れにいうとき、その声はページからまっすぐに僕の胸を突き刺す。
また、ハイラムが、遠く新しい町をあてどなく歩き、工場や船着き場やあらゆる肌の色の市民を眺めているとき、「一輪車に乗った男が笑いながら通り過ぎる。僕はそのときふと、これが生まれてから最も自由な瞬間だと気づいた」。この「僕」はハイラムであると同時に、読者である「僕」でもあった。胸が冴え冴えと晴れてゆく。小説を読む、というより僕は、小説を生きている。
霊、スピリット、スピリチュアル。著者と読者が重なり、ハイラムと僕が同期しあう。まさしく「言霊」が鳴っている。夜明けの鐘のように。真夜中の山中でみあげる星空のように。霊は、ときと場所を折り畳み、離れ合ったひと同士をめぐり会わせ、互いの魂のなかに溶けこませる。はじめに橋が崩れたそのとき、いま思えば、この僕も、川底で溺れかかった身を救われたのだ。
青い光とともに、能力の持ち主は奴隷たちをつぎつぎと北部の町へ逃がす。ハイラムも自然とその有力な仲間となる。あらたに語られるすべての物語が、ひとびとを渡す橋となり、奴隷を、僕を、読者を、自由へとつなぐ。ページをめくればめくるだけ、苦難を、喜びを胸に、僕たちは解放されてゆく。
物語にリズムが加わればそれは歌になる。おさないハイラムのまわりに響くハミングはうまれたての原初のブルースだ。
〈天国の楽団、みな楽器を掻き鳴らし オーブリーが見張り、よい娘(こ)たちが宙返り〉
〈でっかい屋敷の農場へ あったかい家にでかけてく おらを探すときには、ジーナ、はるか遠くにいるはずだ〉
土と雲の上をつなぐゴスペルでもある。
みなから「モーゼ」と呼ばれるハリエットが、みずからの兄弟たちを連れ、ハイラムとともに川を渡る場面。ページはうねり、物語がはじけ、声が声を呼んで鳴りひびく。
「戻ってきたとき、私は同じ女ではなかった」
「モーゼは畑を開墾した!」
「しかし、自分の言葉はしっかりと守った」
「強いモーゼ」
「そして私のジョンのために戻った」
「そう、戻った!」
「ジョンはほかの女と暮らしていた」
「辛い、モーゼ! 辛い!」
「私はそのことで気を揉んだ。二人を見つけ、騒ぎを起こそうかと考えた」
「モーゼは牡牛を操った!」
僕はかつてないスピリットの力に巻かれ、眼球を振り絞って唱和した。歌がつづくあいだ僕は、夜の川を渡る浅黒い黒人のひとりにほかならなかった。
ハイラムの語りは、ひとびとの歌は、一見はなれてみえるこの世のさまざまな物事が、じつはその裏でつながれ、響きあっていることを教えてくれる。僕たちの鼓動もそうだ。目にみえない、耳にきこえない、けれどもたしかに感じられるつながりの源、それを霊、スピリット、と呼ぶとしたなら、小説を読むとは、なんとスピリチュアルな行為なのだろう。
(いしい・しんじ 作家)