書評・エッセイ

2021年11月号掲載

畢生の、大いなる人間讃歌

貫井徳郎『邯鄲の島遥かなり』(上・中・下)

大矢博子

対象書籍名:『邯鄲の島遥かなり 上・中・下』
対象著者:貫井徳郎
対象書籍ISBN:978-4-10-303873-3/978-4-10-303874-0/978-4-10-303875-7

 すごいすごい、時間を忘れて読み耽ってしまった。
 なんせ貫井徳郎である。人間の業と悪を鋭く抉(えぐ)る骨太で重厚な、それでいてトリッキーなミステリの書き手という印象が強い。その貫井徳郎の初の歴史小説、しかも描かれるのは百五十年というロングスパン、さらにそれが分厚めの全三巻……。読む前からやや圧倒されていたことは否めない。が。
 ひとたび読み出したら、あとはもう一気呵成だった。前述のようなイメージの貫井作品を知っているほど驚くに違いない。軽やかで、ユーモラスで、テンポのいい中短編の連作。それでいてその底には、人間と歴史への大いなる尊敬と慈しみが流れている。
 こんな作品を書くのか。書けたのか。
 舞台は関東地方の架空の離島、神生(かみお)島。第一部「神の帰還」は明治維新直後、神生島にイチマツと呼ばれる青年が本土から帰ってきた場面で始まる。
 イチマツは一ノ屋松造といい、島の名家の跡取りだ。この一族には何代かに一度、人間離れした美貌の男子が生まれる。それは島にとって吉兆という古くからの言い伝えがあり、そのため一ノ屋家は子作りに励めるよう、働かなくていいように周囲からの貢ぎ物で暮らしていた。
 そんなイチマツの帰還で島は盛り上がる。神々しいほどの美貌に女性たちは次々と魅入られ、結果、島のあちこちに多くのイチマツの子が誕生することになる。わはは、何だそれ。
 浮かれる女たちに嘆く男たち、それがなんとなく収まる形に収まっていくというこの時点で既にいろいろ面白いのだが、本分はここからだ。イチマツの子には男も女も体に小さな痣があった。それは「イチマツ痣」と呼ばれ、代々受け継がれていったのである。
 この「イチマツ痣」を持つ一族の血脈を追いながら、明治初頭から平成の終わりまでの島の百五十年を描いた大河小説が、この『邯鄲の島遥かなり』だ。
 といってもそんな大上段に構えたものではない。個人の物語の連なりである。だがそれがいい。次期当主として当然イチマツのようにモテると思ったら、片っ端から振られて首を傾げる少年。島の鍾乳洞に徳川埋蔵金を探して探検に出かける男。与謝野晶子に傾倒し、女の権利を叫ぶ女性。島を混乱に陥れた絶世の美少女。芸術に稀有な才能を持つのに飽きっぽい少年。関東大震災。初めての普通選挙に立候補した青年。火山の火口で心中が流行し、増える観光客と縁起の悪さの間で悩む役場の職員。そして訪れる戦争。次々と戦地に送られる島の男たち。島を襲った空襲。戦災孤児と傷を負った復員兵の交流。野球に熱中し、甲子園を目指す少年たち。火山の噴火での全島避難……。
 ユーモラスなもの、ミステリタッチのもの、お家騒動、恋愛、スポーツ。皮肉な話もあれば切ない話もある。独立した短編としても読み応えがあり、実にバラエティ豊かでまったく飽きさせない。
 だがバラバラの話の背景に、島の歴史が浮かび上がる。一ノ屋家の神性を知る世代から知らない世代へ。漁師しか仕事のなかった時代から、椿油の製造、観光と産業が生まれた時代へ。戦争と災害。変わるものと変わらないもの。
 本土と隔絶された離島だからこそ、時の流れに夾雑物が少なく、その分、濃密に〈人と時の連なり〉が浮き彫りになる。ごく些細な、半径1キロくらいの個人の物語がつながることで、壮大な歴史物語へと変貌する。なんと見事な手腕だろう。
 そしてもうひとつ、一ノ屋という特殊な血脈を軸に据えたことで見えるテーマがある。才能のある人とない人の対比だ。本書には何かに才のある人が描かれる一方で、そうではない人も多く登場する。そのどちらもが、自分に何ができるのか、何になれるのか、理想の自分と現実の自分の間で揺れ動く。時を超えた普遍的なテーマだ。これはそんな人々の話でもあるのだ。
 読みながら、さざ波のように幾度も胸に去来する思いがあった。明治でも平成でも、戦争中でも平和な時でも、才能があってもなくても、大人でも子供でも――人というのはなんと滑稽で、なんと愚かな生き物だろう。けれど同時に、人とはなんと逞しく、強く、愛おしいものであることか。この愚かさと強さは、現代を生きる私たちにも連綿と受け継がれている。人は昔からこうして逞しく生きてきたのだ。なんと愛すべき存在だろう。
 パッチワークのようにつながる十七の物語。それは貫井徳郎畢生の、大いなる人間讃歌なのである。


 (おおや・ひろこ 書評家)

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