書評

2022年3月号掲載

遠藤周作 新発見戯曲「切支丹大名・小西行長」解説

なぜ“面従腹背”の劇を書いたか

加藤宗哉

対象書籍名:『善人たち』
対象著者:遠藤周作
対象書籍ISBN:978-4-10-303525-1

「伝記というものは勿論、その人物と自分とのつながりがなければ書けない」と、遠藤周作は「小西行長伝」の連載開始にあたって記した(「歴史と人物」昭和50年12月号)。
 伝記に限らず小説でも戯曲でもそうだろう。この場合は、戦国の切支丹大名・小西行長の生き方と信仰に、作家は自分の人生の断面を見たのである。幸か不幸か、小西行長という人物に関する資料はきわめて少ない。心の動き、信仰のありようを、当時の宣教師たちも報告していない。その限られた戦国の史実に、作家は自分と同種の人間の辛さと苦しさを重ねた。
 たとえば彼ら二人は、神を信じたから基督(キリスト)教の洗礼を受けたわけではなかった。『鉄の首枷(くびかせ)―小西行長伝』には、「行長が父と共に受けた便宜的な洗礼の水はこの日から彼の人生の土壌に少しずつしみこんでいく」とある。遠藤周作の場合は父ではなく母だったが、「便宜的な洗礼」であったことに変りはない。受けなさいと言われたから少年は洗礼を受け、それが母との約束だったから生涯棄てなかった。
 行長は太閤秀吉に仕えながら、“表と裏の顔”を使いわけて生きた。朝鮮への侵略戦争では、「戦う意志がない」ことを知らせるために敵と交戦した。それでいて味方の大本営へは勝利の報告をしている。戦場以外の場でも、たとえば彼は基督教を棄て去ったかのように振る舞いつつ、宣教師や高山右近を密かにかくまっていた。
 面従腹背――作家が行長にその生き方を背負わせたのは、それが自身の苦境やウシロめたさに通じていたからである。かつて、父から棄てられた母に、息子は神戸、西宮で育てられ、言われるとおりに教会へ通い、「勉強は駄目だが、おまえは大器晩成」と守られ、それでも何度かの旧制高校受験に失敗すると、自分から母の家を出て東京の父を頼った。経済的な問題があったとはいえ、その東京の家には父の若い再婚相手もいるのである。……たとえば夕食の膳を囲むとき、西宮でひとり食卓にむかう母を思わぬはずもない。
 だが、息子はやがてこの父親をも裏切る。引き取られた時から、父が示した大学進学の条件は一つ、「医学部を受験すること。でなければ学資は出さぬ」。その言葉に頷くふりをし、だが結局は背(そむ)いた。「医学部を受験した」と言いながら実際に受けたのは、文学部――それは母が願う“信仰と学業”の並立する世界である。文学部合格が明らかになって父は息子を勘当する。彼は追いだされ、母の伝手(つて)で都内のカトリック寮へと移っていく。実業という父の世界ではなく、文学という母の求める領域世界へ。

     〇

 作家になった遠藤周作の二冊目の書下ろし長篇は、『死海のほとり』である。この小説はのちに本人が認めたように、読者からは「キリスト教の臭いが強すぎるので、ウンザリ」(『人生の同伴者』)されたが、作品には書き手の敢然たる意志、他の作家が示したことのないテーマが示されていた。すなわち、①苦しむ人間の傍らにイエスはいる(遠藤的表現を借りれば「永遠の同伴者」)、②そのイエスの愛を受けついで生きることが“復活”、というその後の遠藤文学を形作っていく二つの核である。ちなみに、「永遠の同伴者」には、たとえば四国でのお遍路の、弘法大師と二人で寺をまわる「同行二人」のイメージが重なっていたし、“復活”には「肉体的な蘇りではなく、誰かが愛を行うときイエスはそこに復活している」という独自の解釈が含まれていた。
 にもかかわらず、『死海のほとり』は読者・文壇の関心を得られず、本人としては「クサった時期がちょっとありました。それで次のウォーミングアップをするまでに」(同前)というわけで、「小西行長伝」に取りかかったのである。
 行長はたしかに、高山右近のように清冽には生きられなかった。だが、弱い人間だからこそ、そして中途半端な生き方しかできない男だからこそ、作者は自らの劇(ドラマ)の主人公に彼を選びだす。
   行長の行動を一つ一つ見ると、我々にもこの幼少に洗礼を受けて右近ほどの烈しい信仰を持てなかった男の性格やこの時の怯えや苦しみが読みとれるのだ。(略)行長には神をほとんど問題にしなかった長い時期があったが、神はいつも彼を問題にしていた。神はこの右近追放を踏み台にして行長にもおのれの内面を見るよう仕向けたのである。(『鉄の首枷』)
 この間の行長の動向について、本誌掲載の戯曲は、台詞以外の要素(ト書き・装置など)をできる限り消し去ることによって、逆に評伝作品では表せない迫力と華やかさを浮きあがらせる。そして、たとえば言葉にすれば二つに分かれてしまうもの――希望と絶望、生と死、誇りと汚辱、悦びと哀しみが台詞の先で二重写しとなり、行長の内なる叫び声を観客に届けてくる。
 この戯曲は、当然ながら著者が小西行長の調査・取材を終えた一九七七年(54歳)から、おそらくは一九八一年(58歳)までの間に書かれている。八一年と区切るのは、前号にも記した六十一歳で逝った芥川比呂志についてのこんな文章が遺されているからである。
  (彼の誘いによって)私の心には戯曲を書くことの情熱が燃えあがったが、やがて芥川さんがふたたび病床に臥され、亡くなられると、まるで風船のちぢむようにこの情熱はちぢみ、消えていった。その後芥川さんのように手をとって教えてくれる演出家と仕事をする機会がなかったからである。泥を金にしてくれる演出家と協力する悦びを持てないのは何といっても残念でならない。(カッコ内は筆者、「芥川比呂志さんとの思い出」、「家庭画報」昭和62年10月号)
 恩人の死は、一九八一年のことであった。遠藤周作はすでに戯曲から離れている。だがそれから四年後、作家はふたたび小西行長を自らの主人公に選びとる。ただし、今度は小説『宿敵』として――。このときすでに作家は六十二歳。
 歴史小説はこれ以後かつてないペースで書き続けられ、戦国三部作『反逆』『決戦の時』『男の一生』、切支丹大名・大友宗麟を主人公にした『王の挽歌』、そして七十二歳での『女』まで、あたかも時代小説作家のごとく書き継いだ。そのほとんどが上下二巻であり、この間の総執筆量(歴史小説のみ)は三千数百枚にのぼっている。
 そして何より、これらが①同伴者イエス(あるいは人間を超えた大いなるもの)、②人間の弱さ、③哀しみへの共感――という三角形の構図を作りあげるところが、他にはない遠藤文学独自の世界なのだが、今回そこへこの戯曲が加えられたことの意味はきわめて大きい。


 (かとう・むねや 作家/元「三田文学」編集長)

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