書評

2022年7月号掲載

権力と暴力団の対決を活写した貴重な記録

村山治『工藤會事件』

奥山俊宏

対象書籍名:『工藤會事件』
対象著者:村山治
対象書籍ISBN:978-4-10-354681-8

 読んで背筋が凍る本である。
 殺(や)るか殺(や)られるか――。
 ヤクザ同士の抗争事件の話ではない。無法国家が引き起こす国際紛争の話でもない。
 福岡県北九州市に暮らす公務員たちの、身体を張っての、命をかけての、戦いの物語がこの本である。と同時に、国家権力の切っ先であり、はらわたである検察組織の、ある時期までの怠慢がいかに市民を傷つける結果を招いたか、そして、検察組織と警察組織が総力を挙げ、一体となって標的を定めたときに、いかに、恐ろしいほどの力をふるえたかを検証する本でもある。

 この日本で、市民に銃口や刃物が向けられ、手榴弾(しゅうりゅうだん)が投げつけられているのに、福岡県の警察はなすすべなく、押しまくられていた。暴力団工藤會の関与が警察によって疑われている殺人、放火など未解決事件は2014年5月時点で90件。警察とともに治安をあずかるはずの検察当局の上層部は、ひとごとのように手をこまねいてそれを見ているのも同然だった。
 鉄の規律を保つ暴力団組織を前に、その組織のトップの共謀を裏付ける供述証拠を関係者から得るのは容易ではない。証拠不十分で無罪判決となれば、起訴に関わった検事は検察部内で罰点をつけられ、人事上の不利益を受ける。だからなのだろう、検察は勝負から逃げ続けた。それに対して「悪い奴を成敗しなきゃ、という思いが少ないのではないか」と不信感を抱く警察幹部。

 検察と警察の間には実はその昔からすきま風が吹いていた。
 20年近く昔、福岡県警の暴力団捜査の第一人者として尊敬されていた警察幹部が、部下の「白紙調書」問題を検察に追及され、自殺する出来事があった。この問題で暴力団担当刑事らは検察を恨んだのだろうと、検察側では受け止められた。
 10年以上も昔、福岡地検のナンバー2である次席検事が、ある事件で被疑者の夫である裁判官に捜査情報を漏洩した疑いをもたれ、全国ニュースとなり、検察が世間の非難を浴びる出来事があった。検察側は、県警がその情報をマスコミに流したと逆恨みした。
 組織内で長年言い継がれ、澱(おり)のように染みついた恨みの感情、保身など私的な思惑があるからといって、やるべき仕事をサボってよいはずがない。しかし、それも組織の性(さが)なのだろう。
 末端の実行犯に対する公判の過程で、工藤會の首脳の逮捕へとつながりうる新しい証拠が出てきたのに、検察はそれを漫然と放置し、捜査を怠った。
 そんな検察の、福岡地検小倉支部の検事たちが2014年、工藤會首脳を逮捕する「頂上作戦」へと動いたのは、市民への被害が拡大し、事態を座視できなくなったからなのだろう。
 前線本部の指揮官を務める県警幹部は「摘発に失敗すれば命を狙われる」と思った。工藤會幹部が「捜査員を殺(や)ったとしても、殺った人間の家族の面倒を見られるぐらいのプールはちゃんとしとるんやけ」と、うそぶいたとの情報が伝わってきた。
 福岡地検小倉支部の担当検事を襲撃する計画が存在した。当の検事はのちに組員の一人から告げられた。
「1カ月遅かったら、あなたは殺されていた」

 この本の著者、村山治さんはおそらく、今の日本で最も長く現役の記者を続けている人物の一人だ。1973年に毎日新聞の記者となり、バブル崩壊が始まった91年に朝日新聞社に移籍。2017年に定年で朝日を辞めた後は、フリーランスの記者として取材を続け、さまざまな媒体に原稿を寄せている。つまり記者歴は49年を超える。
 検察組織への取材の深さと広さには定評がある。安倍晋三政権の官邸が不文律を破って検察首脳人事に介入しようとした経緯をリアルタイムで報道し、のちの2020年11月にとりまとめた『安倍・菅政権vs.検察庁 暗闘のクロニクル』(文藝春秋)は、村山さんでなければ著せないルポだった。
 これら、これまで村山さんが取り組んできた仕事の多くは、政治家や大企業経営者が被疑者となる経済事件・知能犯についての取材・報道だった。そういう中で、殺人や放火など強力(ごうりき)犯を中心とする工藤會事件を取り上げたのは異例であるように見える。しかし、この本を読めば、検察組織のあり方を検証したという点で、村山さんの長年のテーマである「権力監視」の延長線上にあることが分かる。
 この本は▽1997年以来、検察組織が主導して、組織犯罪の「共謀共同正犯」の概念を実質的に拡張する事実認定の枠組みを裁判所に認めさせ、また、厳罰化を進めてきたこと、▽大規模公共工事の利権や談合によって巨額の裏金が動いた実情が2006年以降改善され、「縁の切れ目が射殺」につながったこと、▽通信傍受、画像解析など新たに導入された捜査手法が組員の否認の「壁」を破るきっかけになったこと、▽暴力団組員の離脱、更生、社会復帰を模索する試みが続けられていること――などの背景事情を他にはない視点で描いている。

 組織は一人ひとり個性ある人間によって構成される。だから、どうしようもない私的な感情によって、ほころびを見せることもあれば、一つの目的に向かって一丸となることもできる。それは検察組織であっても、暴力団であっても同様なのだろう。この本は組織と組織の戦い、すなわち、検察、警察、工藤會の葛藤、言い換えれば、国家権力と暴力団の対決を、検警組織内部の個々人の生の声と非開示の捜査資料で活写した貴重な記録である。


 (おくやま・としひろ 上智大学教授)

最新の書評

ページの先頭へ