書評

2023年6月号掲載

フェア既刊 書評

日本語の合理性をめぐる予見に満ちた書

鈴木孝夫『閉された言語・日本語の世界【増補新版】』

宮崎哲弥

対象書籍名:『閉された言語・日本語の世界【増補新版】』
対象著者:鈴木孝夫
対象書籍ISBN:978-4-10-603797-9

 外国人に英語を用いて日本語を教えている友人がいる。この人によるとやはり日本語の教育は難しいという。
 その理由として挙げられるのが、第一に文字種の多さだ。ひらがな、漢字、カタカナを習得させねばならない。場合によってはこれにローマ字が加わる。
 さらに漢字の読み方が多様だ。大別して音読み、訓読みがあり、しかも音読みは一様ではない。主に漢音、呉音、唐音の三種類あることが知られている。例えば「にし」と訓読みする「西」は、音では「せい」(漢音)とも「さい」(呉音)とも、あるいは「すい」(唐音)とも読む。最後の「すい」は「西瓜(すいか)」でしか使われないが。剰(あまつさ)え、正書法(正字法)が確定していないので、例えば送り仮名の付け方が極めていい加減だ。ちなみに正書法というのは、簡単にいえば「音声で表現された話し言葉を、どのように書き言葉に移し替えるか」についてのルールのこと。正書法が確定していれば、ここに音声で表現された一節があったとして、これを書き取るとなったとき、誰でも常に同じように記される。しかし正書法が未確立の日本語の場合、おそらく十人十色の表記になるはずだ。送り仮名のひとつとっても何通りもの付け方、書き方があるからだ。
「あなたがここにいてほしい」という音声に対して、「貴方が此処に居て欲しい」「あなたが此所にいて欲しい」「貴方が茲に居てほしい」「あなたがココにいて欲しい」「あなたがここに居てほしい」など複数の仮名交じり表記が想定でき、どれが正規とは決めかねる。
 正書法(オーソグラフィ)が確立されている言葉、例えば英語ならばこんなことはない。書き方は一通りしかないのだ。
 そこで、この曖昧で、複雑で、非合理的で、徒(いたずら)に多様な国語を「改良」しようという声が出るのは無理もなかった。「日本語廃止・英語公用語化論」が初代文部大臣、森有礼(もりありのり)によって、早くも明治年間に唱えられたのを皮切りに、今日まで様々な国語改革案が提出された。
 本書はこうした改良案を次々に斬り捨るのみか、その奥にある近現代の日本人に取り付いた日本語観(「日本語は文法的に不完全」「論理的な思考を表せない」「国際感覚を養うのに邪魔になる」「国際通用性のない遅れた文字(漢字、カナ)を使用している」などなど)を、外国語との比較から根拠に乏しい臆見と斥ける。
 例えば「日本語の表記体系は不合理か」を問うて、英語の表記体系と比較して、日本語の仮名表記は決して合理性を欠いたものでも、後進的なものでもないことが論証されている。
 日本語改良論の新ヴァージョン、梅棹忠夫の「漢字訓読み廃止論」批判も面白い。梅棹は漢字も訓読みもそれ自体は評価しながら、「漢字、ひらがな、カナモジがいっしょになって、一つの表記システムを形成している」ところを難点とみた。「これでは安定した正字法をつくり上げることが、ほとんど不可能だというのである」。
 正字法、即ち正書法の意味は前述した。鈴木は「書き言葉→話し言葉」変換に関しては、英語でもそれが多様に流れてしまう点では大差ないという。
「話し言葉→書き言葉」変換については、「何故、発音された文を書き表わす仕方が、唯一でなければならないのだろうか」と疑義を呈する。そして「表記されたものは正しく読めさえすれば、目的を達する」という。
 日本語は正書法の必要ない言語であって、そのこと自体は欠陥とはいえない、と断じている。
 鈴木は将来、日本語ワードプロセッサーの出現を言い当て、かかる問題はそうした機械(ワープロ)の普及によって解消されるであろうことを予察している。
 1975年に発刊された書物の増補版が本書だ。ただし本文は改訂されていない。あえてそのまま刊行されている。
 そこを踏まえて読むと、驚くべき予見があり、約半世紀を閲しても一向に変わらぬ事態があり、そしてもう古色を帯びてしまった記述もみえる。
 変わらないことは、日本語が使用者の数でみれば大言語であるにも拘らず、なお日本国内に「閉されて」あるという事実だ。
 冒頭に「やはり日本語の教育は難しい」という日本語教師の言葉を引いた。だが外国人の日本語習得に困難が伴うのは、日本語の構造それ自体に原因があるのではなく、教える側、教わる側双方の意識に横たわる障壁にあるのではないかと感じた。


 (みやざき・てつや 評論家)

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