書評
2024年1月号掲載
背徳感溢れる物語
宇能鴻一郎『アルマジロの手―宇能鴻一郎傑作短編集―』
対象書籍名:『アルマジロの手―宇能鴻一郎傑作短編集―』(新潮文庫)
対象著者:宇能鴻一郎
対象書籍ISBN:978-4-10-103052-4
「官能小説なら、私にも書けそう」
団鬼六賞という官能小説の賞でデビューした私は、今まで何度か、小説を書いたこともない人に、そう言われた。
なめられているのだということぐらいは、わかる。純文学やミステリーやSFは難しそうだけど、「官能」なら素人の自分にも書けると、わざわざ官能小説を書いている女に言ってくる人たちは、結構いる。
どうしてそう思うのだろうと考えてみたが、おそらく「自分はセックスの経験がある。官能小説なんて、性体験を書けばいいんでしょ」と、思っているのだろう。だから、誰でも書けるものだ、と。でも、そう言ってくる人が、実際に官能小説を書いてデビューした話を、知らない。最初から官能を見下す人に、書けるわけがない。
小説講座のような場所で、「小説家」には創作の質問が来るのに、「官能小説家」は、創作とは関係ない、好奇心に満ちた性体験や性的嗜好のことしか聞かれないというのは何度か経験してげんなりした。そのたびに私が純文学を書いて芥川賞でもとっていたら、性をテーマにしていても、個人的な性体験を初対面で聞かれるような無遠慮な振舞にあわないだろうにとは、考える。
そんなとき、ふと浮かぶのが本書の著者である宇能鴻一郎だ。東大出の芥川賞作家から、官能小説家に転身するという経歴は、今の時代なら、ありえない気がする。権威ある立場から、男性を興奮させ勃起させるポルノのジャンルに移ることは。
本書は『姫君を喰う話』に続く、宇能鴻一郎の初期短編集だが、いわゆる性行為を描いた「あたし~しちゃったんです」という女性の独白スタイルの「官能小説」ではない。しかし直接の性行為に重点を置いてあるわけでもないのに、じゅうぶんに官能的だ。
「月と鮟鱇男(あんこうおとこ)」の中で、主人公は宴席の残肴を食べてしまう動機をこう語る。
「せめて自分の体におさめて、血とし、肉として同化し、愛しんでやろうと思う。血や肉にはならぬまでも、自分の歯で噛みくだき、舌でこねまわし、唾液と混ぜ、胃で揉み、醗酵させ、腸で水分を吸収し、数日体内において排泄してやるだけでも、自分とその食べもののあいだに交わされる親しみは、申し分なく強烈なものになるのに、と感ずるのである」
性描写の巧い作家は、食の描写も巧いと言われることがあるが、口と舌、そこから内臓を経て排泄に至るまでのこのくだりは、想像力豊かな男なら勃起し、女は濡れるぐらい言葉の羅列がエロティックだ。
この本の中では、表題作のアルマジロをはじめ、鮟鱇、鰻、海亀の産卵等、動物、魚、植物、そして何より食べ物をメタファーにして、「官能」が描かれている。
それらはすべて濃厚で、味と香りが漂い、五感を刺激する。本を手にとってページをめくるだけで、全身の毛穴から毒混じりの蜜が体内に入り込み血液と混じり、支配されてしまうような感覚がある。しかも表現も構成も巧みで知的だ。これほど官能を文学として探求した作家はいない。自分の身体が、他人の言葉に陥落してしまうさまは、まさに極上の快楽をもたらすセックスのようだ。
読み終わっても、まだ身体に宇能鴻一郎の言葉が残り、何度も蘇ってぞわぞわと肌を刺激し続ける。脳からどろりと、ぬるく白い液体がしたたってくる。
本書を読むと、やはり宇能鴻一郎という作家は、「官能」をずっと描き続けてきた人なのだと誰もが理解するだろう。
「官能とは何だと思う?」
著名な文筆家に酒席で問われたことがある。
とっさに私が「背徳」と答えたら、彼は「その通りだよ」と言って、にこりと笑った。
辞書を調べれば様々な意味が出てくるけれど、私にとっての官能は「背徳」だ。うしろめたい、けれど惹かれずにいられない、それなしでは生きていけないもの、秘めごと。
セックスは、ほとんどの人間がしていることなのに、世の中で隠すべきものとされ、まるで無いことのようにされている。さらに、この短編集に描かれている人間の欲望は、当たり前の男女の営みを凌駕し社会を逸脱した背徳的なものばかりだ。
人の五感を捕えて離さない官能的な言葉で綴られた宇能鴻一郎の背徳感溢れる物語を手に取って読んで欲しい。
言葉とセックスして、絶頂に達して放心しながら、ページをめくり続けると、ぱっくりと割れた唇という裂け目から、声が漏れずにいられない。
(はなぶさ・かんのん 作家)