書評

2024年7月号掲載

平時に威張っていた者ほど、非常時には役に立たない

城内康伸『奪還―日本人難民6万人を救った男―』

池上彰

対象書籍名:『奪還―日本人難民6万人を救った男―』
対象著者:城内康伸
対象書籍ISBN:978-4-10-313733-7

 1945年8月、日ソ中立条約を破ったソ連は、旧満州やサハリン、千島列島で日本に対して戦端を開いた。怒濤の如く進撃するソ連軍は、朝鮮半島北部まで進軍。これに慌てたアメリカは、北緯三八度線で朝鮮半島を分割支配することをソ連に提案。ソ連はこれを受け入れ、朝鮮半島は南北に分割されることになった。これが、朝鮮半島が分断されることにつながった。
 大学の現代史の講義で朝鮮戦争について取り上げる際、戦争の前段として、私は右記のような解説をしています。
 それまで朝鮮半島を統治していた日本は、敗北を機に朝鮮半島から引き揚げた。
 こういう説明もしてきました。しかし、この二行で済まされてしまう説明の実態は、いかなるものだったのか。『奪還―日本人難民6万人を救った男―』は、ここに焦点を当て、綿密な取材によって、悲惨な、それでいて英雄的な物語を発掘しています。
 当時朝鮮半島に住んでいた日本人のうち、三八度線で分断され、ソ連軍の支配下に入った北朝鮮に取り残された人々は約二五万人と推定されています。さらに満州にいた約七万人の避難民が北朝鮮に逃げてきます。この人たちを、三八度線を越えて南側に送り届けることに尽力した男がいたのです。
 いったん南側に逃げれば、米軍によって日本に送還されたからです。日本に帰るには三八度線を越えるしか手がありませんでした。
 日本人を北朝鮮から奪還した男。その名は松村義士男。戦争に敗れて機能を失った朝鮮総督府の日本人官僚たちは、なすすべもなく茫然とするばかり。本来、日本人を本土に送り返すために努力しなければならない役目の役人たちや日本軍の兵士たちは、さっさと逃げ出し、行き場を失った“難民”たちは途方に暮れます。
 そこに襲いかかるソ連軍の兵士たち。日本人からあらゆるものを奪い、女性たちを凌辱する。この兵士たちの手の甲には数字が書かれていたという証言もあります。囚人たちが前線に送り出されていたのです。
 これは、まさにいまウクライナで展開されていることと同様ではありませんか。刑務所でリクルートされたロシアの囚人たちはウクライナで略奪を繰り返し、女性たちを襲っています。ソ連がロシアになっても、戦争になると歴史は繰り返すのです。
 そんな“敵地”に取り残された日本人たち。食料は不足し、故郷に帰れる見通しも立たないまま寒い冬がやってくる。栄養失調で免疫力を失った人たちは、腸チフスやコレラなどにかかって次々に失命する。まさに地獄絵図が繰り広げられていたのです。
 太平洋戦争後の歴史では、焼け野原になった本土各地の様子や闇市、戦災孤児の話が多く語られてきましたが、朝鮮半島に関しては、あまりに悲惨な体験であったがゆえに、本土に帰ってきてからも口を閉ざす人が多く、とりわけ朝鮮半島北部の様子はあまり語られてきませんでした。元中日新聞記者でソウル支局長も経験した著者の城内康伸氏は、知られざる歴史を丹念に解きほぐします。
 邦人救出に尽力した松村は、かつて本土で日本共産党のシンパとして労働組合運動に取り組み、逮捕されたこともありました。朝鮮半島に渡ってからも危険人物として警察にマークされていたのですが、終戦になると立場が逆転。朝鮮共産党との間に人脈を築き、秘密裏に交渉を重ねて日本人を三八度線以南に送り出す工作をしたのです。
 当時の三八度線は、朝鮮戦争より以前ですから軍事境界線ではありませんでしたが、鉄道は断絶され、主要道路はソ連軍兵士によって厳重に監視されていましたから、山中の獣道や海路を通っての逃避行となります。
 平時に威張っていた者ほど、非常時には役に立たない。平時には監視対象だった“変わり者”が活躍する。そんな人間模様が展開されたのです。
 松村のことを熟知した人物は、手記の中でこう記しています。
「義人にして北朝鮮引き揚げの英雄、黙々として多くを語らず、温情は全身に溢れて、日本民族救出のためには鬼神を泣かしめる離れ業を敢行した。北緯三十八度線が生んだ日本民族の巨星である」
 松村義士男の存在は、もっと知られるべきなのです。

(いけがみ・あきら ジャーナリスト)

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