インタビュー
2024年11月号掲載
『富士山』刊行記念イベント
この人生には、無数の偶然が積み重なっている
新作短篇集刊行を前に、収録作「息吹」について語り合う読書会でのスピーチと質疑応答。
対象書籍名:『富士山』
対象著者:平野啓一郎
対象書籍ISBN:978-4-10-426011-9
――『富士山』は10年ぶりの短篇集ということですが、どのような位置づけでお書きになったのでしょうか?
自分の中ではこれまでの作品を第1期から第4期まで区分けしていまして、ちょうど2000年を境にアメリカ同時多発テロが起きたり、インターネットの登場でいろいろな事が変わり始めた頃に、これまでの小説の書き方では現実を捉えきれないと感じて、「高瀬川」などの短篇を集中して書いた時期がありました。これを第2期と呼んでおりまして、実験的な作品が多いので読者の好みが分かれるところですが、じつはその後の第3期に向けて重要な役割を果たしているんですね。そして10年前に出した短篇集『透明な迷宮』もまた、第4期の長篇『マチネの終わりに』『ある男』『本心』へとつながっています。そして今、そろそろ第4期も終わって次のシリーズに進む時期と感じていたので、方向性を見定める試みとして短篇をまとめて書きました。ただし今回は実験的になりすぎずに、一作ごとに物語性を楽しめるように工夫したつもりです。
――その最新短篇集に収録されている「息吹」が本日の読書会の課題なのですが、主人公の齋藤息吹が、かき氷屋が満席だったので「たまたま」入ったマクドナルドで隣の席の客から大腸内視鏡検査の会話を耳にします。それが気になった息吹が検査を受けたところ、家族の平穏な日常が「もう一つの日常」に侵食されていく……という物語です。「たまたま」が強調されている印象ですが、これはどういう着想のきっかけがあったのでしょうか?
僕は1975年生れ、いわゆるロスジェネ世代なので、反・自己責任論者なんですね。金持ちになったのは努力の賜物で、不遇な生活をしているのは本人のせい、という新自由主義的な風潮につねに反発してきました。結局のところ誰の人生も、本人にはどうしようもない偶然の要素に左右されている面が大きいと思うんですよ。そう考えることで、うまくいってない人は自分を貶め過ぎずに済みますし、良い人生を送っている人も「たまたま運が良かった」と自分に謙虚に、他者に寛容になれるのではないかと思うのです。
――平野さんご自身には、あの時こうだったらという思いはありますか?
それはもう、現実のなかで偶然的な経験はたくさんしていて、それこそ僕が大学生のときに「新潮」編集部に『日蝕』を持ち込んで、それでデビューが決まったのも運が良かったと思います。当時の編集長が別の仕事で忙しかったり、新人作家に関心がなかったり、ちょっとした風向き次第で、今ごろ僕はまだ京都のアパートに暮らしてバイトしながら新人賞に応募する生活を続けていたかもしれません。
最近、偶然というものに対する世の中の感受性がどんどん鈍くなっているような気がします。昔のほうが、例えば書店で面白そうな本をみつけるとか、たまたま目にした広告に惹かれてモノを買うとか、社会全体が偶然性に期待していたところがありましたが、今はネットの閲覧履歴から消費傾向をカスタマイズして、偶然性を排除した広告展開が当たり前となっています。それは読者の感覚をも侵食してきていて、小説の中で奇跡的な出会いを果たすと、「そんな韓流ドラマみたいなことがあるはずないでしょう」と鼻白む感覚が強まっているように思います。でも現実の世界では「たまたま」が人生を左右することが往々にして起こっていますよね。実際、僕も齋藤息吹と同じように、友人が大腸内視鏡検査を受けたという話を「たまたま」耳にしたんですよ。
――それで気になって平野さんも検査を受けたと?
特に深刻に受け止めたわけでもないのですが、まあついでにやっとくか、という気持ちで受けてみたら、結構大きなポリープが見つかって、医者に「放置していたら数年で大腸がんになっていましたよ」と言われ、もう気持ち悪くなっちゃったんですよね。50代初めにがんが見つかった世界の自分の姿が妙に生々しく想像できて、出版社の担当者たちが「平野さん、大腸がんで大変らしいよ」と囁く場面がありありと目に浮かんできて。
――現実に起きていないのに、細部までリアルな想像ですね。
人間の記憶というのは結構あいまいで、現実よりも頭に強く念じたイメージの方が記憶に強く残ることがあります。ですから「息吹」のラストも、結局、内視鏡検査を受けたのが現実だったのか非現実だったのか、どちらとも読めるように余白を残しました。今日の読書会のように、読み終わった後にみなさんと互いに話すことで、自分とは違う読み方のストーリーがあり得たことを知ることもできますし、最後は読者の個人的な経験が練り込まれることによって完成するような読書があっても良いのではないかと思います。
――読者にどう読まれたかはやはり気になりますか?
ちょっと余談になりますが、毎日新聞で『マチネの終わりに』を連載していたときに、同時にnoteでもWEB掲載していたので、コメント欄の書き込みが日に日に増えてきたんですね。この小説は、ある事情があって別れた男女がもういちど再会するかどうかが重要なポイントなのですが、途中から「二人は再会できるんですよね」「まさか会えずに終わりとかあり得ないですよ」と、書き込みがどんどんヒートアップしてきて、これは面白いと思ったんです。知り合いに彼氏と別れたと恋愛話をされても、「でもまた復縁してほしい」とかふつう言わないし、こんなに感情移入しません。それが小説独特の力なんだと思います。だからこの頃から、小説のラストには読者が自由に想像できる余地をなるべく残すことを心がけるようになりました。
――それではここで、会場にいらっしゃっている方からの質問をどうぞ。
(参加者1)私自身の問題でもあるのですが、幸福とは何かを考えるときに、私たちは運命論的なものをどのように享受して、周囲に派生するためには何をすれば良いのでしょうか? というのも、今はスマホで簡単に他人の生活水準や暮らしぶりが見えてしまうので、「初めからこれが自分の運命だった」と受け入れるのがなかなか難しい時代なのではないでしょうか。
自分の運命があらかじめ決まっていると思うと人生はつまらなくて、自分で切り拓いていけるんだって思いたいですよね。それはそうなのですが、過去の自分をしみじみと振り返ったときに、なぜあの時にあれができなかったのかと後悔することもあって、それは運命的に仕方なかったんだと考えることを、『マチネの終わりに』で書いたんですね。現実的に、僕たちの人生は自分でコントロールできることと、できないことが微妙な割合で混じっています。だから自分ではどうしようもない困難については自分ひとりで抱え込まないで、NPOや公的支援を受けるとか、なるべく状況をシェアして、なおかつ自分で変えられることは踏ん張るのが大切かと思います。まあ、インスタグラムに華やかな生活をアップしている人も、つらい時もあれば裏で大変な苦労をして何度も撮り直したりしているはずで、こうした想像力もけっこう大事だと思いますね。
(参加者2)私は平野さんの分人主義という考え方に救われた部分があるのですが、この作品の中ではある選択をした/しないことによる「自己存在の揺らぎ」みたいなことが書かれています。なぜ人はアイデンティティとか、自分とは何か、を考えたり悩んだりするのでしょうか? また今後、平野さんがお書きになりたいテーマは?
「もし自分の人生がこうだったら」という想像を、今はとても掻き立てられやすい時代だと思うんですよね。というのも、例えば昔だったらマイナーな外国の街を舞台にした小説を書くときに、ほとんど誰も行ったことがないから好き勝手に想像力で書けました。ところがいまは情報技術の発達によってネットの情報で現実の外国の街の様子がすぐに調べられるので、間違いは指摘されますし、その一方でアフガニスタンに生まれたら、女性は頭髪をヴェールで覆って外出しなければならないといった生活様式まで、遠い国のことでも容易に情報を入手できます。こうした刺激が、メタバースの登場や、主人公が現実世界ではあり得ない能力を獲得する「異世界転生もの」ラノベの流行にも繋がっているように感じますね。人間の中にはいくつかの分人があって、そのひとつがヒロイックに活躍できる世界に、フィクションを通じて入り込みたい、という気持ちはとてもよくわかります。しかし一方で、個人、つまりインディビデュアルが「不可分なもの」という意味の単語から派生しているように、長い歴史の中で、「一人の人間には一つの自我がある」という考え方からなかなか抜け出せずに、あれこれと思い悩むこともあるでしょう。だから僕の場合は、「本当は、自分のことがよくわからない」と堂々と表明することが大事だと思っているんです。好きな食べ物は何ですかとよく聞かれますが、暑い日にラーメンは食べたくないし、接待で三日三晩フレンチが続いたらあっさりした和食が食べたいですよね。いつだって人は環境とか気分とかタイミングで揺れ動いているから、人生で一番好きな音楽アルバムは何と聞かれても、本当に答えようがない。人生最高の曲が明日になればコロッと変わっているかもしれないし、そうした「揺らぎ」をむしろ楽しんでいます。得体の知れない人だと思われそうですが、「そう簡単に分かられてたまるか」という気持ちもあります(笑)。ですから次の第5期には、こういった「刹那的な」分人についても考えていきたいと思っています。
(参加者3)これまでお話しされてきたのは、おもに精神面での分人論のように思うのですが、「身体」についての分人論は今後どのような展開をお考えでしょうか?
非常に鋭いご質問をありがとうございます。僕は個人を分割可能な集合体と捉える考え方として、ディビデュアル(分人)という言葉を提唱しましたが、じつは調べてみると1970年代頃から人類学の分野でディビデュアルという言葉が使われていたんです。しかしこれは身体の断片的な意味の分化という意味合いでの分割可能性であって、僕の場合は精神面での人格的な分割を提唱している。では身体は関係ないかというとまったくそんなことはなくて、アイデンティティにまつわる経験は、どこか痛みの感覚と結びついているのではないか、というのが僕の実感です。「こんな自分じゃなければ良かったのに」という自己嫌悪感とか、それこそ自傷行為とか、身体の痛みが必ず伴います。また逆に、音楽のリズムに合わせて踊ったり、とてつもない美術作品を目のあたりにしたときの歓びもまた、身体的な興奮と切っても切り離せません。僕はこれまでも、例えば『かたちだけの愛』という作品では、美脚の女王と呼ばれた女優が交通事故で左脚を切断しなければならなくなり、彼女の分人とアイデンティティがどのように揺らいでいくのかを描きました。まだ今の段階では具体的なプランを描いているわけではありませんが、おそらく次のシリーズでも、身体との対話の中から新しい物語の可能性がひらけるのではないかと考えております。
(2024年9月29日 赤坂EDITIONにて)
(ひらの・けいいちろう)