書評

2024年11月号掲載

私の好きな新潮文庫

深く潜って触れに行く

青木奈緒

対象書籍名:『ジェーン・エア〔上〕』『ジェーン・エア〔下〕』/『古都』/『雀の手帖』
対象著者:シャーロット・ブロンテ、大久保康雄 訳/川端康成/幸田文
対象書籍ISBN:978-4-10-209801-1 978-4-10-209802-8/978-4-10-100121-0/978-4-10-111613-6

 今になって思えば、子どもなりに気を遣ったということなのでしょう。
 私は本を読むのが好きでしたが、それは近所に友だちがおらず、家の中で一歳半しか離れていない兄と遊べば時間の問題で喧嘩になって泣かされていたという理由から。要するに、消去法的な本好きでした。
 母方の祖母が幸田文で、当時の私はお祖母ちゃんと孫の関係しか求めておらず、祖母の作品を読むことに妙な抵抗がありました。身内のものを読まないのに、よその作家を読むのは申し訳ない。そこで日本文学全般を封印し、読むのは翻訳ものだけと心に決めました。
 その中で強烈な印象として残っているのがシャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』でした。主人公が暮らす寄宿学校の厳しさ、貧しさの象徴として、朝食に「焦げたおかゆ」の場面が描かれます。おかゆといっても十九世紀の英国の話ですから米ではなく、オートミールでしょう。子どもの頃の私は冷たい牛乳をかけたオートミールのぐちゃぐちゃしたおかゆが大の苦手で、その上、焦げていてはどれほど気持ち悪いだろうかと主人公に大いに同情を寄せていました。

 その後、私はドイツに長く暮らしてオートミールには慣れましたし、今ではおかゆにしたオートミールも、遠い日に両親が週末の朝に特別感を漂わせて食べていた記憶を思い返しつつ食べています。おかゆを煮た鍋底にうっすらお焦げができてしまうこともあるのですが、意外に香ばしい、麦こがしのような味がします。
 さて、若いころに日本文学を頑なに避けていた私は、多くの人が成長過程のどこかで読むような、いわゆる日本の名著を知らずに育ってしまいました。たとえば川端康成の『古都』。ずっと読みたいと思いながら先延ばしにして、数年前にやっと手に取りました。冒頭のすみれの花の描写も、平安神宮に爛漫に咲く紅しだれ桜も、北山杉の里をすっぽり包む時雨の情景も、まるで息を呑むほどうつくしい幻を見ている気分です。

 でも、何より目に留まったのは読点の使い方でした。自分の文章のリズムとは違いますし、祖母や曾祖父・露伴とも違います。要は読点が多いのですが、それによって読む速度が自然と落ちて、せかせかとした日常のテンポは削ぎ落とされ、完全に小説世界に取り込まれます。会話で交わされる京ことばも相まって、私にとっては日本語で書かれた別世界に遊ぶような感覚でした。
『古都』は1961年から翌年にかけて書かれた連載小説です。一方で、幸田文の『雀の手帖』は『古都』よりさらに二年前、1959年の新聞連載をまとめたものです。日々のあれこれを綴った随筆で、小説よりも実生活がより強く反映されています。時代を共有していた新聞購読者に向けて書かれており、今の私たちはある意味、読者として想定外なのではないか、作品が賞味期限切れになっていやしないか、という点が先頃、文字拡大新装版が刊行されたときの私の密かな心配でした。

 身内の目には甘いところがあるかもしれません。でも、たぶん、大丈夫です。それどころか、令和の時代を生きる私たちはおそらく読者として想定されていないからこそ、読書という主体的な行為によって六十五年前の過去へ対話しに行くことができる、すでに故人となった著者と心を通わせることができるように思います。
 海の水は表層の波の動きとは別に、数千メートルの深さでゆったりと深層海流が流れているのだそうです。成立から時を経た作品を読むとき、私は深く潜って、この深層海流に触れに行くような感覚を覚えます。時の移ろいはめまぐるしいようでいて、深いところにゆったりしたものが流れているのではないでしょうか。その深いところに作品の命が宿っているに違いない。そんなことを考えながら、過去の作品と向き合っています。

(あおき・なお エッセイスト)

最新の書評

ページの先頭へ