書評
2025年1月号掲載
愛にまつわるケーススタディ
沢村凜『紫姫の国(上・下)』
対象書籍名:『紫姫の国(上)』/『紫姫の国(下)』
対象著者:沢村凜
対象書籍ISBN:978-4-10-102335-9/978-4-10-102336-6
ファンタジーの魅力は、普段当たり前に使っている言葉を、等身大の日常の文脈からべりっと引き剥がしてくれる点にある。その言葉にまつわる記憶が読者の内側で起動し「でも、自分の経験上はこうだから。知っているから」という価値判断を生じさせることなく、物語を読み進めていくことができるのだ。そして、ありふれた言葉が、とびきりフレッシュに、初めてその意味を知るかのような衝撃と共に胸へと届く。日本ファンタジーノベル大賞出身の沢村凜が、文庫書き下ろしで刊行した上下巻のファンタジー大作『紫姫の国』がまさにそうだ。その言葉とは、例えば、愛。
上巻の序盤で描かれていくのは、「王都」と呼ばれる大都市に家族と暮らし、都市警備隊の隊員として働く青年・ソナンの来歴だ。父は腕のいい大工だったが、作業中の事故で働けなくなり、酒浸りとなった。そんな父が死んだ時、〈悲しかったが、それ以上にほっとした〉。家族というくびきから解き放たれたソナンは旅商いの仕事に就き、故郷を出てさまざまな街を旅するようになる。その旅路は海へと広がり、やがて危険な外界へと一歩を踏み出して……。
本作は、2020年に全四巻で刊行された著者の前作「ソナンと空人」シリーズと連動している。前作はワルガキのソナンが英雄になる成り上がりストーリーだったが、その物語にも登場した、同じ名前を持ちながら性格は正反対の「いいソナン」が、本作の主人公となっている。事の必然として前作からは途中でフェードアウトすることとなった「いいソナン」には、どんな人生があったのか。本作を楽しむために、前作を読んでおく必要は一切ない。ソナン自身の口により、同名異人との邂逅が語られていくからだ。
実は本作は、上巻の一九ページの時点で、現在のソナンは奇妙極まりない状況にあることが明かされる。過去パートの合間に短い現在パートが挿入され、奇妙極まりない状況のモヤが少しずつ晴れていく、という構成が採用されている。ソナンは海で遭難し、辛くも一命を取り留めた。目覚めた場所は峻険な崖に囲まれた岩棚で、脱出のための通路は見当たらない。ところがそこへ、謎の娘が現れた。何日も何日も、彼女は、革袋に入った真水をソナンに渡す。ソナンには、娘がどこから来てどこへ帰っていくのかわからないまま。のちに心の中でウミと呼ぶようになる――海で出会ったからだ――彼女は、「話せ」と言った。ここへと至る来歴と、ソナンが抱えている「陰」の内実を。
ソナンが全てを語り終えた時、何が起こるのか。その興味は序盤を読み進めるうえでの推進力となっているが、回想が終わってからが物語の真の幕開けだ。紫姫なる人物が王と祭司の長を兼ねている、通称「紫姫の国」へと舞台が移り、ソナン以外の語り手が複数登場して物語は一気に多声化する。沢村凜という書き手のストロングポイントは、現実には存在しない国家を高解像度で創造する力だ。紫姫の国のさまざまな特殊性――主食である「飯竹」の栽培・精製方法や、戦乱が起きない、起こさないための仕組み――を記録しつつ、ソナンがある目的を達成すべくかの国をサバイブする姿が活写されていく。そして、もう一つ。沢村凜という書き手の最大のストロングポイントは、ファンタジー世界だからこそ可能となった、恋愛感情の表現にある。上巻のクライマックスでその表現が解放されたのち、ラスト一行でもたらされる爆風の凄まじさたるや。勢いのまま下巻へと突入すると、潜入ものというサブジャンルが立ち上がっていることに気づく。アクション+サスペンス=活劇の素晴らしさは、作家の新しい顔を見る思いがあった。物語全体に仕掛けられた大胆不敵なミステリー要素も、多くの人がまんまと引っかかることだろう。
振り返れば前作「ソナンと空人」は、恋か愛かで言えば、恋の物語だった。「一目惚れ」というありふれた一語が、ファンタジーの回路を経由するとこんなにもドラマチックになるものかと驚いたことをよく覚えている。好きな人とずっと一緒にいたいんだ、というソナンの初期衝動の貫徹っぷりも、今思えば実に恋っぽかった。だが、本作はまぎれもなく愛の物語だ。そう断言するならば愛の定義が必要となるが、この物語のネタバラシを避けたいという意図以上に、そもそも愛は定義ができない。愛にまつわるケーススタディを束ねていった先に現れるもの、それこそが愛だ。
ファンタジーのもう一つの魅力は、あり得ないことが起こることにある。作品世界独自の価値観やルール、リアリティ(その世界における本当らしさ)を稠密に構築することができていたならば、読者の内なる「あり得ない」の声がねじ伏せられる。そして、「あり得ない」のリミッターを壊すことにより、等身大の日常を舞台にしていては不可能な、愛の表現が可能となる。上下巻全六〇〇ページのこの物語には、愛にまつわるケーススタディがぎっしり詰め込まれている。
これが、これこそが、愛だ。下巻を読み終えた瞬間、そう信じられるようになるからこそ思うのだ。愛は、運命を変え、価値観を根底から変える。
愛は、恐ろしい。
(よしだ・だいすけ ライター)