書評

2025年4月号掲載

歩いてわかること

澤田瞳子『京都の歩き方─歴史小説家50の視点─』(新潮選書)

井上章一

対象書籍名:『京都の歩き方─歴史小説家50の視点─』
対象著者:澤田瞳子
対象書籍ISBN:978-4-10-603924-9

 あまり知られていない歴史の話が、たくさんもりこまれている。なじみのうすい文献をひくところもある。にもかかわらず、たいへん読みやすい。私はいっきに読みとおせた。読み手をひきこむ文筆の技と言うべきか。脱帽である。
 澤田さんは京都で生まれそだった。だが、その文章に、ことさらな京都じまんの気配はない。たとえば、「仕事で上京する……」という書きだしではじまる一文がある(〈10「京料理」の誕生〉)。東京へおもむくことを、「上京」という言葉でしめしている。私などは、こういう書きぶりに、ほっとする。
 京都には、東京訪問を「上京」とよばない人が、少なからずいる。21世紀の今日なお、「東下り」と言ってはばからない。関東下向という観念をたもっている。都は今でも京都だ。遷都の勅令は、まだでていないと言う人たちである。そんな京都人ではないことが、「上京」のひとことで、よくわかる。安心して読める。
 私は親の代から、京都の近郊でくらしだした。先祖代々の京都人ではない。澤田さんも、その点は同じであるという。おのずと、親近感がわいてくる。
 おさないころは、妙心寺の保育園へかよったらしい(〈36 通学路から時代劇が見える〉)。私も、半年ほどだが、同じところへ通園した。澤田さんと私は同窓生ということになるのだろうか。まあ、小学生以後のキャリアはかさならないのだが。
 澤田さんの実家は銀閣寺のそばにある。街中の学校へはバスでかよった。だが、桜の季節は、満員のバスに、なかなかのせてもらえない。しかたがないので、歩いてかえることも多かったという(〈1 京都人の「京都」を探して〉)。
 このごろは、オーバーツーリズムの問題点が、よく語られる。京都では、市民がバスにのれなくなっている。そんな映像が、テレビで紹介されるようになってきた。だが、澤田さんは言う。そんなの、「今に始まった話ではない」。子供のころからそうだった、と(〈25 平野神社の普賢象桜を見て〉)。
 ここも、全面的に共感できる。私は嵯峨でそだった。実家は嵐山と大覚寺のまんなかあたりにある。桜も紅葉も、たいへんな数の観光客をもたらした。その迷惑は、かぞえあげればきりがない。
 ついでに、書いておく。私の地元で傍若無人にふるまったのは、いわゆるインバウンドじゃない。日本人である。日本人が空き缶などを、すてていった。外国人ばかりをなじりやすいこのごろの報道に、私は違和感をいだく。
 市民がバスにのりづらい状況へ話をもどす。バスはあてにならないから歩く。あるいは、自転車ででかける。めんどうなことである。しかし、おかげで近代交通が普及する前の歴史は、しのびやすくなった。じっさい、以前はたいてい徒歩だったのだから。
 京都には酒呑童子の伝説がある。大江山に拠点をおき、しばしば都へ出没し、悪行のかぎりをつくす。そんな鬼の言いつたえがある。源頼光がその鬼退治で力を発揮した話は、古くから芝居や物語にとりいれられてきた。今でも、ゲームにいかされている。
 さて、その大江山である。この所在地をめぐっては、ふたつの説がある。ひとつは、丹後の大江山、もうひとつは洛西の大江山である。
 京都府北部の福知山市は、丹後説をうちだしている。「鬼のまち」として、まちづくりにものりだしてきた。「日本の鬼の交流博物館」もある。いっぽう、京都市は洛西説に、それほどこだわっていない。
 ただ、私の勤務する国際日本文化研究センター、日文研は洛西の大枝にある。こちらのほうが本命だろうと、私などは思ってきた。日文研のレストランが「赤おに」を名のっているのも、そのためである。
 澤田さんは言う。古い伝承は洛西、後で丹後説は浮上した。福知山と京都は、七十キロほどはなれている。いくら酒呑童子でもそうたびたびは京都へでむけまい。もともとは、洛西の伝承だろう、と(〈27 なぜ大江山は丹後に設定されたか〉)。徒歩が体感にきざまれての指摘と言うべきか。私どもには、ありがたい援軍である。
 さいきん、福知山市から日文研に連携の申し込みがあった。こんどの大阪・関西万博で、鬼の展示をする。ついては、共催の形がとれないか、と。私どもは、これをうけいれた。歴史的な和解と言えば、おおげさにすぎようか。それでも、澤田さんにはおつたえしておきたい一件である。
 テレビのドラマで耳にする坂本龍馬の土佐訛りは、誇張されている。そして、あの口調を一般化したのは司馬遼太郎の小説だと、よく言われる。澤田さんも、この見方を支持しているようである(〈2 東寺の塔は空海のコーラ〉)。
 龍馬は、まだ若かった中江兆民を、一時期手下にした。そのことを、兆民はこう回想する。「純然たる土佐訛りの言語もて」指図をされた、と(幸徳秋水『兆民先生』)。司馬が龍馬へあてがった土佐訛りにも、根拠はあったと考える。蛇足ながら、のべそえる。

(いのうえ・しょういち 風俗史研究者/国際日本文化研究センター所長)

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