インタビュー
2025年6月号掲載
円城 塔『去年、本能寺で』刊行記念特集
AIには吹けない法螺の吹き方
「ずっと信長を書きたかった」――そう語る円城塔さんが満を持して贈る『去年、本能寺で』。織田信長、明智光秀、斎藤道三、細川幽斎……。歴史小説を彩る武将たちを描きながら、摩訶不思議な時空へと読者を誘う本作の魅力に迫ります。
対象書籍名:『去年、本能寺で』
対象著者:円城塔
対象書籍ISBN:978-4-10-331163-8

――『去年、本能寺で』は日本史に題材をとった全11編の短編集です。個々のアイデアはSF的ですが、語り口は歴史小説のような趣があります。どのような発想でお書きになられたのでしょうか。
なんでしょうね。ジャンルは難しいのですが、素朴に見たまま、思ったままを調べながら書いた、というところでしょうか。史料には、素直に読むとこう解釈できるだろうという箇所があります。また、現代の読者に伝えるには、このような比喩が効果的だろうと思う箇所もあります。たとえば「幽斎闕疑抄」では戦国時代の武人であり、当代随一の文化人である細川幽斎を扱いました。彼は――彼というほど親しくはないのですが――実にメカっぽい。当時の文化の脈絡が結集したマシーンのように思える。和歌も極めて儀礼的で形式に則って詠み、武術もまた型が第一である。料理においても、人間味のない包丁で、魚をこう配置する、こうやって切る、と作法ばかりが語られる。それをそのまま書こうとした場合、AIだった、とすると収まりがよく感じられる。
――最初に戦国時代にAIを登場させようというアイデアがあったのではなく、細川幽斎のことを調べるうちにAIと解釈すると腑に落ちるものがあったというわけですね。
そうですね。史料を読んでいくと不思議に感じることが出てきて、それを掘り下げていくと、また新たな謎が見つかります。その謎を素直に、その不思議さのままに書いていくと、さらに変わった展開になっていく。そういった積み重ねで出来上がったものが、本作『去年、本能寺で』ということになるかと思います。
――作中では北米で流布された珍説「坂上田村麻呂黒人説」や歴史学で新たな定説となった「斎藤道三二代説」などを取り上げていらっしゃいます。
どちらも長年気になっていた題材でした。坂上田村麻呂の場合は、黒人解放運動の文脈で、歴史上の著名な黒人を顕彰する動きに巻き込まれ、いつの間にか黒人とされてしまった。珍説として笑い飛ばすのは簡単ですが、アカデミックな研究にも影響を及ぼし、日本通として知られる研究者のなかにも「坂上田村麻呂は黒人だった」と大真面目に主張する人がいる。昨年、「アサシンクリード シャドウズ」というゲームの発売が発表された際、織田信長に仕えた黒人「弥助」というキャラクターが物議を醸しましたが、そこでも「坂上田村麻呂黒人説」が再び注目を集めました。これは書いておかねばと思ったのです。
また斎藤道三の国盗りについても、一代で成し遂げられたものではなく、父子二代にわたる事業だったというのが、すでに歴史学ではそういうことになって久しいのですが、依然として司馬遼太郎の『国盗り物語』のイメージが更新されないままです。新しい発見が登場すると、他分野への伝播に10年、一般社会への普及にさらに10年かかるといいますが、歴史についての認識にも同じことが言えるでしょう。道三を巡る認識のズレを、自分なりの方法で書くと「三人道三」になった。
――私も本作の原稿を読むまで、国盗りの事績は道三ひとりのものだと思っていました。司馬遼太郎が描いた道三の姿が強い印象を残していて、今でもそのイメージが一般に流通している気がします。
司馬遼太郎の影響は、やはり絶大です。その歴史認識の是非はいったん措くとして、歴史は日々研究され、実証的に更新されていくものですから、それに従って日本史の描き方も変えていく必要がある。実際、司馬遼太郎の読者が学芸員に「司馬先生が書いていることと違うじゃないか」とバトルを挑むようなことも起きています。小説における日本史のアップデートは必須ですし、その書き方も含め、もっと風通しをよくしたいという思いがあります。本作の「タムラマロ・ザ・ブラック」では、「征夷大将軍」の語に「コマンダーインチーフオブジエクスピディショナリィフォースアゲインストザバーバリアンズ」とルビを振ってみたのですが、そうやって歴史小説の日本語をずらしていって、暗黙の約束ごとから自由になる書き方を模索しました。
――本作では、司馬遼太郎の作品の語り口を意識された箇所もあると伺っていますが、司馬作品はどのようなところが特徴的だと感じていますか。
司馬の語り口は、実に魔術的です。普通、作家の主張は露骨に表れるか、こっそり仕込まれるかのどちらかですが、司馬の場合、独特の融合の仕方で表れる。これは日本語の特性である主語の省略可能性を巧みに利用した語り口であり、一種の魔術です。悪用すれば大変危険なことにもなりかねない。
ポイントは、短い言葉でさらっと書くこと。長々と書かれると読者は疑問を持ちますが、短い表現だと自然と受け入れられ、真実として刷り込まれていく。たとえば、「日本人は健気だ」と書かれれば「そうかもしれない」と思ってしまう。でも、どんな民族だって健気なところはあるわけです。「アメリカ人は健気だ」「ヴァイキングは健気だ」と言っても、そうかもしれないと思うでしょう。これはほぼトートロジーに近いのです。
――司馬遼太郎に限らず、歴史小説というジャンルについては、どのような考えをお持ちでしょうか。
日本の歴史小説は、恐竜のように巨大化しながら特殊な進化を遂げ、われわれ日本人が読むと面白いのですが、海外への輸出となると途端に難しくなります。一つの言葉、一つの名前に、様々な意味が詰め込まれているためです。無理に翻訳しようとすれば、注だらけの補足が必要になってしまいます。この「輸出のしづらさ」はずっと感じていて、何とか海外でも読める歴史ものを手渡せないかと考えています。とはいえ、本作はハイコンテクストな作品になってしまったので、翻訳は相当難しいでしょう。
歴史小説の特殊性というと、作者と読者の間での暗黙の了解が多いところが挙げられるかと思います。歴史には数多くの空白がありますが、歴史学では史料なしに空白を埋めることは許されないという厳格な考え方をします。一方で、歴史小説にはなんとなく決まった空白の埋め方があって、それに従ってストーリーが進んでいきます。その埋め方は作者と読者の間で暗黙のうちに「こうだよね」と共有できるものがあるように思われますが、実際にはそんなものはないわけです。私としては、「こんな埋め方もできるのでは?」という提案として、様々な手法を試みました。
――歴史を題材にした小説を書くということについて、何か意識したことはありましたか?
大きな話で言えば、フェイクとトゥルースの区別がつきにくい時代になりました。本作程度であれば、まだ偽史だと気づくでしょうが、事実と虚構の差異がより小さくなっていけば、次第に判別が難しくなっていく。そういう意味で、本作はフェイクに抗するための練習として読むこともできるかもしれません。「おかしいな」と思ったら調べてみることが大切です。ただし結構本当のことが書いてありますが――そんな対フェイクのためのトレーニングとして。
また、いまはAIが何でもそれらしく説明してくれる時代です。歴史について尋ねても、一見するとそれらしく答えてくれるのですが、時々とんでもない法螺を吹くので、うるさい、と。そこで、もっとすごい法螺を吹こう、と。人間ならこんな法螺が吹けるぞ、お前には吹けまい、という気持ちです。もちろん、AIにも同じようなことはできるのでしょうが、それは誤生成として再教育の対象となる。本当の意味で法螺が吹けるのは人間だけかもしれません。
――『去年、本能寺で』というタイトルにふさわしく、本作には織田信長が随所に出てきます。信長のことを書きたい、と以前から思っていらしたのでしょうか。

信長については、デビュー当時からずっと気になっていて、「いつか書きたい」とよく口にしていました。信長というのは実に書きづらいんです。その名前を使った瞬間、そこに意味が生まれ、文脈が発生してしまう。たとえば、転校生の信長くんが登場するとしましょう。すると必然的に明智くんや浅井くんを登場させざるを得なくなる。一度そうなると、展開も自ずと決まってしまい、身動きが取れなくなる。織田信長を男性として描こうが女性として描こうが、若者として描こうが老人として描こうが、何か意味がまとわりついてくる。みんな信長を書くけれど、正面からは書きづらい。どこか搦め手から書く。そこはずっと気になっていましたし、恐らく信長としても思うところがあるだろうと。
――「暴君」や「時代の先駆者」など、「信長」という言葉に付随する様々な意味のうち、一部の要素のみを大きくしてキャラクターに仕立てている創作物は多くありますが、そうしたイメージを用いず、信長を一人の人間として描いた作品は、確かに少ないように思います。
これほど遊ばれてきた歴史上の人物は他にいないでしょう。姫川榴弾さんの著作に『信長名鑑』(太田出版)という労作があります。ゲームや漫画などの創作作品に登場する様々な信長を、585作品・703名分リストアップしていますが、それでもなお網羅しきれない。織田家には家系図が残り、現在も子孫が存在するというのに、なぜか信長だけは自由に創作してよい存在として扱われている。そこは不思議ですね。
――実際に信長を書いてみて、いかがでしたか。
「本能寺の変」を経たのち、キャラクター化の荒波に揉まれる信長を描くという手法を選びましたが、信長もこれくらいは言いたいのではないかと。もう少し書き込んでもよかったかもしれませんが、ひとまず満足しています。
――最後に読者のみなさんへのメッセージをお願いします。
いつも申し上げていることですが、笑っていただけたらと思います。読書というと、どうしても意味が分かるか分からないかという話になりがちですが、私としては面白いと感じていただけたら、それで十分です。
(えんじょう・とう)