書評
2025年6月号掲載
CIA長官も評価した『孫子』 諜報活動の奥義を学ぶ
佐藤 優『「孫子の兵法」思考術─大混迷時代のインテリジェンス─』
対象書籍名:『「孫子の兵法」思考術─大混迷時代のインテリジェンス─』
対象著者:佐藤 優
対象書籍ISBN:978-4-10-475219-5
これは「孫子の兵法」というより「佐藤優の兵法」だ。希代のインテリジェンス・オフィサー佐藤優が、「孫子の兵法」に仮託して諜報の基本を教授してくれる。元は「週刊新潮」に2024年に連載されたものを加筆修正したのだが、まとまって読むと、その奥深さに圧倒される。
『孫子』は、中国古代の兵書(軍事指南書)であり、「戦わずして勝つ」などの片言隻句は知られているが、それ以外にどのようなことが書かれているか、体系的に読み通した人は稀有だろう。
佐藤氏によると、『孫子』は、アメリカのCIA長官を務めたアレン・ダレスも高く評価していたという。アレン・ダレスは、確かに優れたインテリジェンス・オフィサーではあったが、得た情報を巧みに使ってアメリカの政財界で独特の地位を築いた人物だ。さらにCIAを単なる情報機関にとどまらず世界各地で謀略を仕掛ける組織に“発展”させた人物でもある。その能力の背景に『孫子』の存在があったとは。
なかなか読み通す人がいない『孫子』に関し、佐藤氏は自身が体験した諜報活動の具体例に沿って中身を解説してくれる。楽しくも興味深く諜報活動の奥義を学ぶことができる。
日本にはアメリカのCIAやイスラエルのモサドのような諜報機関が存在していないが、氏はモサドの幹部から「君はどの偽装を用いているのか」と尋ねられたという。佐藤氏が「偽装なんかしていない。日本外務省に所属する生粋の外交官だ」と答えても信用してもらえなかったという。佐藤氏の能力を見れば、モサドの幹部が氏の返答を信用しないのも当然のことだ。
本書には、佐藤氏一流の韜晦による具体例が次々に出てくる。「以下は筆者による全くのフィクション(創作)だということにしておく。だから想定される人物については詮索しないでほしい」などと注釈をつけながら。ところが「架空の人物」がどのようにして敵の手の内に転落していったかを詳細に記述しているではないか。「詮索しないでほしい」と言うのは、要は「誰のことだと思う?」という謎かけではないか。関係者にはわかるようになっている。性格が悪い。困った人だ。
『孫子』には「用間」というスパイ(間諜)の活用法について5つの類型があるという。「郷間」、「内間」、「反間」、「死間」、「生間」の5通りについて、佐藤氏は具体例を交えて詳説する。これは、諜報活動とは言わないまでも情報収集活動をしている人や組織にとって必読の内容だ。
佐藤氏は諜報活動に通暁しているだけに(通暁どころか実践していたのだが)、諜報機関あるいは防諜機関がどのような手段を駆使するかが活写されている。ロシアでは狙った人物を陥れるのに売春婦が使われると思っている人も多いだろうが、実際のロシアの諜報機関FSBは売春婦ではなく「純愛」に介入するという。各国の諜報機関のあざとい手口を知ることは、実は人間性に関しての深い洞察を得ることになるということがよくわかる。
佐藤氏は「国策捜査」によって東京地検特捜部に逮捕される。それ以降、それまで接触してきていたアメリカや中国の諜報関係者は近寄らなくなったが、ロシアやイスラエルは見捨てることがなかったので、いまも連絡を取り合うことができているという。ここに人間性の違いが出るではないか。いや、諜報機関の能力の差が出ると解釈すべきかもしれない。
佐藤氏は、ソ連崩壊からロシアへと移る大混乱の時代にしっかりとした情報収集活動を成し遂げ、「日本の外務省にサトウあり」と各国諜報機関から一目置かれたが、なぜロシアの防諜機関の摘発を逃れたか(バルト三国で活動中に物理的警告を受けたが)、その方策を説明している。その策をここでは紹介しないが、氏の日本での活動を見ても、ハハーンと納得できる。
この書で情報感度を掴むと、ロシアのプーチン大統領が、アメリカ大統領選挙についてロシアの記者に「バイデンとトランプ、どちらが我々にとって良いのでしょうか?」との問いに「バイデン氏です」と答えた意味もわかるだろう。
本書を読むのは諜報機関の関係者ばかりではないだろう。教育機関で学び、教え、企業で働く人にとっても情報の宝庫となっている。楽しみながら読者自身の情報感度を高めていただきたい。
(いけがみ・あきら ジャーナリスト・名城大学教授)