書評

2025年6月号掲載

新潮選書ベストセレクション 昭和100年/戦後80年 歴史フェア2025

人物評伝を読む 日本を考える3冊

佐伯啓思

対象書籍名:『大久保利通―「知」を結ぶ指導者―』/『本居宣長―「もののあはれ」と「日本」の発見―』/『西行―歌と旅と人生―』
対象著者:瀧井一博/先崎彰容/寺澤行忠
対象書籍ISBN:978-4-10-603885-3/978-4-10-603911-9/978-4-10-603905-8

 もしも私が人物評伝やエッセイを書くはめになれば、誰を取り上げるであろうかと、時々、考えたりもするのだが、いっこうに名前があがらない。見も知らぬ人物の生きざまにどっぷりと浸るには、相当な共感の持続がなければならない。どうも、それが私には欠落しているようだ。
 関心を掻き立てられる人物や思想家は結構いるのだが、逆にいえばいすぎるのである。その結果、私の興味は、人物というよりも、彼の思想や、背景をなす思想史へと向かう。さらには、その思想の現代的意味が気になる。だから、人物評伝を読む場合にも、今日それを読む意味はどこにあるのか、などと考えてしまう。
 ところで、ここにとりあげる三冊は、私にはすこぶる楽しい時間を与えてくれた。時代が新しい順でいえば、まず瀧井一博氏の『大久保利通―「知」を結ぶ指導者―』。
 大久保といえば、どうしても盟友かつ宿敵である西郷隆盛との対照がよく知られ、「義と情の人、西郷」に対し「利と理の人、大久保」として脚色されるのが常であろう。こうなると西郷の方に分がある。私自身もその俗耳につられ、大久保の事跡や足跡にはほとんど関心がなかった。だが本書は、大久保に付きまとう西郷の影など目もくれず、大久保その人の歩みを実に丁重に描き出す。
 明治維新の謎のひとつは、薩長志士の過激な尊王攘夷が、いかにして新政府の建設という難事業へ向かい、さらに徹底した欧化政策へと転換したかにあろうが、その中心にはいつも大久保がいた。本書は、大久保の歩みを日記でもひもとくように丹念に眺めることで、この謎を解きほぐす。

瀧井一博『大久保利通―「知」を結ぶ指導者―』書影

 彼は、「利と理にたけた先進的リーダー」どころか、人々の調整役としてしんがりに座を構え国家の方向を展望し、公的な議論(公論)へ人々を誘う総合的プロデューサーであった。この大改革者を、「政治制度はその国の『土地風俗人情時勢』に従って構築されなければならない」という漸進的改革の思想の持ち主と見る著者の大久保像を、果たして、今日、「改革」や「変革」を叫ぶ政治家たちはどう評価するのだろうか。
 次は先崎彰容氏の『本居宣長―「もののあはれ」と「日本」の発見―』。本居宣長論というと、まずは小林秀雄の同名の大著を思い出す。この書物で、とりわけ『古事記伝』を扱う際、小林は、(本人も述べているが)引用に次ぐ引用を重ねている。古語を頼りに古代人のこころや神の道を知るには、ただ古人の言葉遣いを知るほかないという宣長の徹底した思想に小林は共感したからだ。余計な解釈は「さかしら」に陥りかねない。

先崎彰容『本居宣長―「もののあはれ」と「日本」の発見―』書影

 そこに宣長を論じる難しさがある。先崎氏の宣長論は、『古事記伝』には触れず、それ以前の『石上私淑言』や『紫文要領』などに限定して思い切った解釈をほどこしてゆく。たとえば「もののあはれ」とは、個人の私的な情緒などではなく、古代から続く「わが国びとの生活の記憶」、つまり伝統と歴史に共鳴することだ、というのだ。
 これなど私にはたいへん面白く説得力をもっていた。それらが「さかしら」に陥らないのは、宣長に向き合う著者の態度が鮮明だからだ。つまり、外国の高度な文明(著者のいう「西側」)にすり寄る「からごころ」こそが、日本人のこころを空虚化してしまう、という宣長の危機感は、決して過ぎたことではない。グローバリズムの現代もまた、あの「宣長の時代」なのだ、と著者はいうのであろう。
 最後に寺澤行忠氏の『西行―歌と旅と人生―』。本書は実に読後感がよい。決して奇をてらわず、強力な解釈意図など微塵もなく、実に誠実で丁寧な論述であるが、だからこそ、その和歌と共に西行のありのままの姿が浮かび上がる。

寺澤行忠『西行―歌と旅と人生―』書影

 西行には私は何かあるなつかしさをおぼえる。いくつかの有名な歌しか知らないが、昔から、世俗の栄達を捨てて漂泊の旅に徹した西行という人物の苛烈な生に共感を持っていた。出家しつつも人恋しさに耐えられず、無常から逃れるためにまた無常の旅を続けるという西行には、日本人の深い心情を打つものがある。昔に読んだ小林秀雄の影響かもしれないが、どうやら、著者も同じ経験を持つようで、おまけに、著者は高校時代を奈良で過ごしたと記している。私も高校まで奈良にいた。何か、奈良の風土と西行が漂わせる無常の風には響きあうものがあるのかもしれない。いずれにせよ、本書が、このせわしない情報過多の現代日本において、多くの読者の共感を呼んでいるという事実はすばらしいことに違いない。

(さえき・けいし 京都大学名誉教授)

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