書評

2026年2月号掲載

今月の新潮文庫

多彩で自由な人間関係のレシピ

角田光代『ゆうべの食卓』

森絵都

対象書籍名:『ゆうべの食卓』
対象著者:角田光代
対象書籍ISBN:978-4-10-105839-9

 人間関係のレシピはひとつじゃない。これで完成、なんてこともなく、常に何かが欠けていて、だから補い合ったり、欠けたまま受け入れ合ったり、思いきってメンバーチェンジをしたりしながら、私たちはどうにか生きていく。『ゆうべの食卓』を読みながら、しみじみとそんなことを考えた。
 十一編の短編小説から成る本書には、実にさまざまな人間模様が織りこまれているけれど、特徴的なのは「こうでなくてはならない」という関係性の掟がない点だ。あるいは、「こうであろうと思っていたものの、そうはいかなかった。でも、ま、いっか」と、作中人物の誰もがしなやかに軌道変更を肯っている点だ。そして、第二の特徴は──もとは雑誌「オレンジページ」で連載されていただけあって──そんな人々の力強い味方として、常に「食」がそこにあること。
 もったりしたグラタン。夏野菜とチキンの蒸し焼きディナー。大根ハトシ。手羽中の焼き鳥。登場するいずれも実においしそうだが、それだけではない。「食べてみたい」「作ってみたい」と身悶えながら読み進めるにつれ、私たちはふと気づく。「食」がいかに生きる基本であることか。ひと皿の料理がどれだけ人と人の隙間を埋めてくれることか。
 たとえば、「明日の家族」の浜野麻耶。結婚当初の彼女は、おせち料理のチラシをながめては、家族が増えたらこんなおせちを……などと夢想していた。が、実際に子どもができて成長すると、現実はそれほどのどかではない。大学生の息子は下宿を始め、高校生の娘はろくに口もきかず、夫は上海に単身赴任中。かつて描いていた家族像からは程遠い。それでも、彼女はその現実を否定することなく、今ある家族の形を、時間の経過にともなう自然な通過点として受け止める。〈バラバラになったんじゃなくて、ただ変わっていくだけなんだな〉と。
 そのきっかけとなったのは、ある夜更け、娘の理名と共にした夜食だ。空腹で眠れないけど、太りたくない。そんな理名に、麻耶はローカロリーな「春雨とささみ、野菜たっぷりのフォーもどき」をこしらえてあげる。そして、向かい合って一緒に味わいながら、高校時代は自分もゆで卵ダイエットをしていた、と打ち明ける。母子のなにげない会話。そこで麻耶は思いだすのだ。〈高校生のとき、自分だっていつも不機嫌で、父親とは口をきかず、母親には突っかかっていて、切実に痩せたかった〉と。フォーもどきの湯気が母娘を包み、その空間を和ませていく様子が目に浮かぶようだ。
「私の無敵な妹」の食事シーンも素敵だ。ビアガーデンのバーベキューセットを挟んで向かい合うのは、三十代半ばの姉妹、佐伯春奈と佐伯夏芽。この夜、そもそも二人はフレンチレストランでディナーをする予定だったのだが、どちらも気が乗らず、キャンセルをしてバーベキューと相成った。なぜなのか。その時点で読み手である私たちにそれは明かされない。わかるのは、この二人がすこぶる仲の良い姉妹であるということ。
 とりわけ、子ども時代から友だちづきあいの苦手だった姉の春奈にとって、夏芽は重要な存在だった。〈夏芽といれば、この先世のなかがどんなに退屈でも、理不尽でも、馬鹿馬鹿しくても、無敵だと春奈には思えた〉ほどである。事実、就職後も姉妹は2LDKのマンションで同居し、春奈は無敵の妹を頼りにしつづけてきた。春奈にしてみれば、このまま妹と二人でのんびり年老いていきたかっただろう。ところが──。
 ビアガーデンで大ジョッキのビールを流しこみ、肉や野菜を焼いては喰らう姉妹の会話を追うほどに、やがてひとつの事実が浮かびあがってくる。明日は夏芽の結婚式であり、これは人生を共にしてきた姉妹の区切りの晩餐だったのだ、と。そりゃあ、ひと品ひと品運ばれてくるフレンチ料理をお行儀よく賞味などできなかっただろう、と一気に腑に落ちた。仲良し姉妹にとって、この日の夕食はビアガーデンの定番、枝豆や冷やしトマトでなくてはならなかった。脂ぎった豚トロでなければやっていられなかったのだ。
 ほかにも本書では「離婚後もときどき二人でごはんを食べ続ける元夫婦」「デートは盛りあがらなくても一緒の食事は楽しめる男女」「空間を超えて不思議な結びつきをする妻と元妻」等々、なんとも名づけようのない間柄が多々散見される。しかも、各話の中でその形態はさらなる変化を遂げていく。不変のものなど何もない。それが爽快に感じられるのは、全話を通じて「これでいいのだ」という潔い肯定感が貫かれているためだろう。
 関係性がどれだけ移ろおうとも、食べたものが血となり肉となるように、人と人が共に過ごした時間は心の栄養となって、深いところで私たちを温めつづける──そんな後味ならぬ読後感をぜひ味わっていただきたい。

(もり・えと 作家)

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