書評
2026年3月号掲載
騙し絵(トロンプルイユ)の魅力
水生大海『私のせいではありません』
対象書籍名:『私のせいではありません』
対象著者:水生大海
対象書籍ISBN:978-4-10-356711-0
見事な騙し絵を鑑賞したような気分になる小説である。
水生大海『私のせいではありません』は「yom yom」に2025年2月から7月にかけて掲載されたものを大幅改稿の上に単行本化した連作ミステリものである。「yom yom」掲載時は「祝宴のトロンプルイユ」という題名だった。『私のせいではありません』を読みながら頭に思い浮かんでいたのは、実は掲載時のタイトルにあったトロンプルイユという言葉である。
トロンプルイユとはフランス語でそのまま訳すと「目だまし」。目の錯覚を利用することで、実際に事物が目の前に存在するかのように見せる絵画などの技法のことだ。つまり本作は読者へ騙しの技法を仕掛けて挑戦するタイプのミステリである、と「yom yom」掲載時には仄めかされていたわけである。こういうミステリは事前情報を入れずに読んだ方が気持ちよく騙されるに違いないだろう。とはいえ、この説明だけでは手に取りづらい方もいると思うので、ここから先はネタばらしをしないように細心の注意を払いながら紹介したい。
第一話「六年前の赤い扉」では、とある結婚式の二次会パーティ会場の様子がまず描かれる。そこでは新婦である天藤瑠璃の美大時代の同級生が集っていた。披露宴には出席せず二次会からやってきた桜沢陽向もその一人だ。二次会は陽向にとって、ちょっとした同窓会のような雰囲気を持つ場になっていた。そのせいか、出席者たちの話題は大学時代に起こった不可解な出来事の回想へと移っていく。それは陽向たちが大学二年生の時に学内で起きたもので、指導教授の一人である柳教授の部屋の扉が赤く塗られていたという、ちょっとした事件だった。柳教授のパワハラ的な厳しい指導への不満から起きた事件ではないか、と目されていたが、結局のところ真相は不明のままになっていたのだ。
かつての仲間が再会し、過去に起きた事件を回想しながら再び謎に向き合う、という物語は青春小説の要素を持つミステリにおける定型の一つである。本作もそうした懐古的な味わいのある、いわゆる“日常の謎”を扱うミステリ連作集なのかな、と最初は思うはずだ。ところが、その予想は早々に裏切られることになる。本作は同窓会のような集いという牧歌的な響きから次第に離れていき、やがて捻じれや歪みを抱えていくことになる。収録された各話はいずれも意外な展開が用意されており、一編ごとに読者を翻弄して振り回した挙句に最終話へと誘っていく。第五話「暗い海に射す青は」で、読者は第一話の冒頭とは全くかけ離れた風景へと連れてこられた感覚になるはずだ。まさか終点がこのような場面で終わるとは、という思いを抱きながら本を閉じることだろう。
これだけでも手の込んだミステリ連作集であることは理解いただけたと思うが、さらにミステリとしての読みどころを知りたいという方に向けて、ネタばらしを避けながらもう少しだけ紹介する。連作集としてまず称揚すべきなのは、読者に宙吊りの気分を味わわせた上で最後に驚きを与える技法が一話ごとにきちんと織り込まれていることだ。宙吊りにする、すなわちサスペンスを醸成させて不安を煽ってから思わぬ一撃を加えるのである。しかもその一撃は意外というか、まるで注意を向けていなかった方角から攻めてくるのだ。なかにはミステリを読み込んでいる人の思考を先回りした上で不意打ちを食らわせるような部分もあり、どこまでも油断のならない物語が連なっている。短編集における水生の代表作の一つに『最後のページをめくるまで』(双葉文庫)という作品がある。これは物語の終幕近くに必ずサプライズを仕込んで読者を揺さぶる短編が揃っているのだが、衝撃的な幕切れをより効果的にするためのサスペンスにも力が込められていた。短い頁数の中で如何に読者を惑わし驚愕させるのかを考え抜く水生の技量が、連作形式である本作でも発揮されているのだ。
ミステリ連作集としてのもう一つの読みどころは、本稿冒頭でも述べた騙し絵的な技法が生む驚きだろう。トロンプルイユを用いた絵画の代表例として、物が浮かび上がっているかのように見せかけるものがある。真正面から見れば立体的な物が存在するように受け取れるが、側面に回ればそれが平面に描かれた絵であることは直ぐに分かる。つまりトロンプルイユがもたらす驚きとは、対象物を見る視点を変えることによって初めて生じるものなのだ。これと同じことが『私のせいではありません』にも当てはまるのである。もっと言えば、その驚きは一度限りではなく一冊の中で幾度か味わうことになるはずだ。これ以上書くと具体的な構造の話へと踏み込んでしまうため、説明はここまでに留めておこう。後は小説に身を委ねて、騙しの技法をとくと味わって欲しい。
(わかばやし・ふみ ミステリ評論家)


