書評

2026年10月号掲載

生の連鎖的な活性化に向けて

ミシェル・フーコー『ミシェル・フーコー著作集 新訳版 監獄の誕生―監視と処罰―』

藤原辰史

対象書籍名:『ミシェル・フーコー著作集 新訳版 監獄の誕生―監視と処罰―』
対象著者:ミシェル・フーコー、慎改康之 訳
対象書籍ISBN:978-4-10-506713-7

『ミシェル・フーコー著作集 新訳版 監獄の誕生─監視と処罰─』を自己憐憫として読む傾向はないだろうか。学校の運動会、模試の成績表、監視カメラ、健康診断などを通じて権力は、私たちの身体の位置と時間をプロットし、知の体系に紐付けして馴致してきた、という認識はもちろん、それ自体として間違いではない。
 ただ、この読み方には、特権的な人々が自分も被害者であるとことさら強く語るときの高揚感を感じないこともない。そこには、権力が最も苛烈に襲う、健康診断も模試も受けられない人を想像する余地はない。馴致の巧妙さばかりに注目して本書を引用する研究者は依然として多い。給食という日本独特の訓育装置や、システムキッチンという食の統治の末端装置など、近代監視の研究に時間を費やしてきた私も、本書の議論にどこか癒されていたように思う。
 しかし言うまでもなく、本書の主題は敗者の美学に耽ることではない。監獄や旧植民地での抵抗と拷問と拘束に抗議する運動の担い手として、その抵抗の道筋を見つけるためにも書いたはずだ。というのも、フーコーは、チュニジアのチュニス大学の教員として、1966年に始まっていた学生運動を支援した経験や、パリの五月革命で逮捕された仲間の一部による監獄の待遇改善運動に呼応して、監獄に関する情報収集を目的とした「監獄情報グループ」を創設した経験が背景にあったからである(「訳者解説」)。ややこしいのは、当時のチュニジアの大統領ブルギーバはフランスからの独立の英雄であり、インドネシアのスカルノやガーナのンクルマのように民衆の人気も強く、社会主義的思考を持ち、近代化を進めていたことだ。だが、ブルギーバは反体制運動を弾圧し拷問を加える独裁者で、フーコー自身も当局から威嚇や暴力を受けていた。であるからこそフーコーは、権力が行使される対象として「狂人や子供や学童」に「被植民者」を加えていたのであり(四一頁)、また、執筆時に世界中で起こっていた「監獄での暴動」が、「寒さ、息苦しさとすし詰め状態、ぼろぼろの壁、空腹、殴打に対する暴動であった」と述べていた(四二頁)。力を不当に奪われている側に立つ自分の姿を、隠していない。
 私が本書を初めて読んだのは大学院生のころだ。だが、その後、本書刊行時よりもはるかに監視能力を高度化した体制に抗議するささやかな運動の組織づくりなどに関わってみたあと再読すると、読後感はまるで変わった。実践的な本なのである。本書は、生の統治の理論書である以前に、生を連鎖的に活性化させる技法書であると思う。
 たとえば、フーコーの次の文章に、院生のころの私の心はいまほど動いてはいなかった。

規律はまた、組織化された多数多様性の構成そのものから出発して形成される力のすべてを、統御しなければならない。その多数多様性から生じ、その多数多様性の支配を望む権力への抵抗を形作る反権力的な諸効果が、規律によって無力化されなければならない。騒乱、暴動、自然発生的な組織形成、結託が──水平的な結びつきに属しうるもののすべてが──無力化されなければならないのだ。(二八九頁)

 農業史の文脈でいえば「一揆」──暴動だけではなく、強訴や逃散も含む──のような「組織形成」の「発生」に苛立ち、押さえ込もうとする権力目線に立つことで、逆に、「結託」のしたたかさを描いてみせる。こうした自然発生的な組織形成を、それが勝利したことは稀だったとはいえ、私は何度眼にしてきただろうか。
 ここで振り出しに戻る。身体刑がしつこく描写される場面で、私たちは「反権力」の活性の描写に出会っていたはずだ。たとえば、一七世紀末のアヴィニョンの事例。ある殺人犯が処刑されるとき、残虐的すぎる処刑を目撃した民衆は「受刑者への同情と処刑人への激怒に突き動かされ」て処刑人に石を投げた。降り注ぐ石のなかで処刑人は梯子から降りようとするが、途中で転げ落ちる。押し寄せる民衆に彼は銃剣を向けたが、民衆に叩きのめされ、泥の中で窒息死した、という事件である(八四頁)。
 公開処刑であるかぎり、処罰者もまた見物人によって監視され、異議申し立ての危険にさらされている。受刑者を奪い取るため民衆が連帯することもあった。受刑者の死に際が立派だと崇拝の対象になることもあった。このような「逆転」の危険性も理由の一つとして、見せしめの身体刑は監獄での拘束へと移っていった、という過程が本書では描かれている。その変遷はしかし、見物人の、あるいは被抑圧者の自然発生的な生の活性と組織化が失われてこなかった歴史としても読めるのである。

(ふじはら・たつし 歴史学者)

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