対談・鼎談

2023年1月号掲載

対談「書く女」ができるまで

梯 久美子 × 窪 美澄

それぞれの新作、長篇小説『夏日狂想』とノンフィクション『この父ありて 娘たちの歳月』で
〈女性がものを書くとはどういうことか〉を描破した二人が自身の体験をも振り返る白熱の対話!

対象書籍名:『夏日狂想』新潮社刊/『この父ありて 娘たちの歳月』文藝春秋刊
対象著者:窪美澄/梯久美子
対象書籍ISBN:978-4-10-325926-8

〈父と娘〉の関係から

 直木賞受賞、おめでとうございました。受賞後は取材や執筆の依頼で、ずいぶん大変だったでしょう?

 「大変になるよ」とは言われていましたが、こんなに大変だとは誰も具体的に教えてくれなかった(笑)。人前に出るような苦手な仕事も多かったのですが、やっと落ち着いてきました。

 「オール讀物」に掲載された受賞記念エッセイ「生きてきた私」では生家のことを書かれていました。もうひとつ、短篇集『すみなれたからだで』(河出文庫)には「父を山に棄てに行く」という作品が入っています。私はこれを小説として読んでいたのですが、今度の受賞エッセイを読むと、あの短篇は窪さんが実際に体験したことを書かれたものらしいと分かりました。

 はい。「父を山に棄てに行く」は小説として発表したものではなくて、『ふがいない僕は空を見た』で山本周五郎賞を頂いた時の受賞エッセイです。

 自らの結婚生活も危機にある娘が、年老いて自殺未遂を繰り返す父親を山間の施設に入れる――窪さんの言葉だと「棄てる」話です。

 「『オール』の直木賞発表号に自伝エッセイを」と依頼されたんです。またあの父親や経済的に困窮した挙句に崩壊した生家のことを書くのかと心が重くなったのですが、まあ「父を山に棄てに行く」から十一年も経っているし、気持ちも変ったかなと思って書いてみたら、全然気持ちが収まってなくて(笑)。直木賞貰って、お父さん、お母さんも喜んでくれていると思います、なんて具合にはまるでいかず、「五十何歳にもなって、まだこんなこと言っているのかよ」みたいな、恨みがましい原稿になってしまいました。

 そこがいいのではないでしょうか(笑)。私も父についてのエッセイを頼まれることがあります。書いていると、どうしても「問題の多い父でしたが、心はどこか通じ合っていました」みたいな〈父に愛された娘〉の物語に着地させてしまいがちなんですね。これは無意識にせよ、世間の要求に合わせているなと反省して、しばらく父に関しては書かない時期がありました。

 女性作家が書くことを暗に求められる父親像の定型ってありますね。梯さんの新著『この父ありて 娘たちの歳月』(文藝春秋)は石牟礼道子さん、田辺聖子さん、島尾ミホさんたち九人の女性作家とその父親を取り上げていますが、みなさん見事に定型に収まらない関係にあった父娘ばかりです。

 あの本で取り上げたのは、おおむね父に愛されてきた娘たちです。それが戦争とか父の死とか結婚とかがあって、彼女たちは人生のある時期から突然、父を通じて接してきた社会とはまた異なる社会と対峙せざるをえなくなります。つまり、男の価値観で出来あがった社会に直接ぶつかっていく。

 そんな娘の宿命は意外と今もあまり変わっていないのかもしれませんね。それに最近は〈毒親〉など、母と娘の物語が多いので、父と娘のテーマは新鮮でした。

 父と娘の関係は今なお複雑ですよね。一筋縄ではいかない。

 複雑です。私は子供の頃、父の嘘をずっと信じていました。借金まみれなのに「多摩川の近くに家を建てる」とか、明らかな嘘をかなり大きくなるまで信じてた。毎週日曜に車で山奥のダムや海へ連れて行ってくれて、それはのちに「心中するつもりだった」と聞かされますが、そのドライブも当時の私はいつも楽しみにしていたんです。振り返ると、「私はお父さんのことが本当に好きだったんだなあ」と思うし、そんな自分が悲しくもなります。

 母親は同性だし、身近な存在だから、もっと理解しやすい気がしませんか? いつ何を着て、どんな化粧をして、どんな料理を作っていたかを思い出すと、それだけで母の人生がぼんやり見えてくるところがある。娘からすると、父の人生を思おうとしても取っ掛かりがあまりないんですよね。

 私は母と一緒に暮したのは十二歳までなんですが、女性に対する好き嫌いの原型は母に作られた気がしています。母は「愛嬌のある女の子が一番よね」と言っていて、本を読むような女性は理屈っぽいと公言するような人でした。母への反発から私は今みたいになったのではないか(笑)。物を書いていると、いかに自分の思い込みが父や母の価値観によって作られているかが分かる瞬間があって、そこは壊していかなきゃいけないなと考えています。

作文だけは褒められた

 梯さんが物を書いていこうと思われたのは何歳くらいからですか?

 作文が得意な子供ではありました。実は小学六年の時の作文には「童話作家になりたい」と書いたのですが、具体的に就職を考える年齢になった時は、まず編集者になりたかった。窪さんは作文が上手だったでしょう?

 私は頭が良くなくて、点数が良かったのは作文だけでした。

 作文には本当のことを書いた?

 小学一年の時、冒頭に「先生、あのね」とだけ印刷された紙を渡されて、「この続きを何でもいいから書きなさい。夢で見たこととか空想したことでもいいから」という宿題が出たんです。それで行ってもないのに、「お父さんがさっぽろ雪まつりに連れて行ってくれました」とか嘘ばかり書くのが楽しかったし、担任の羽生先生に赤ペンで褒められて、いい気持ちでした(笑)。

 私は小学三年の時に「時の記念日」の作文で、家の時計がなくなった話をでっち上げて賞を貰ったんです。文集に載ったから家族も読んだのだけど、誰も「こんなの嘘じゃない!」とか文句を言わない。ああ、入賞すれば世間は許すのねと分かった(笑)。

 梯さんはそんなに小さい時から嘘のお話を書いているのに、小説家になろうとは思わなかったのですか?

 小説や詩を読むのが好きで、ずいぶん救われてもきました。小説家はずっとあこがれの対象で、だからこそ自分に書けるとはどうしても思えない。同時に、あんな嘘八百の作文を書いた自分は筆が滑る人間かもしれないと警戒していて、ノンフィクションを書く際の「事実と推測をきっちり分ける」「決して話を盛らない」という強い戒めにもなっています。

 梯さんの本を読んでいると、禁欲的に書かれているからこそ、すごく熱が籠っているんだと思います。

 小説はどうなんでしょう? 書いていて制御不能になったりしますか?

 筆が滑るほど調子よく書けることは滅多にないのですが(笑)、水が勢いよく飛び出て暴れまわっているホースをパッと捕まえなきゃいけないような場合はありますね。

 分かりやすい比喩! 小説でも想像力を駆使するだけではなくて、抑制する力も必要なんですね。

『夏日狂想』の主人公に託したもの

それぞれの著書

 実在の人物や事件を題材にする場合、小説とノンフィクションの境目をどこに引くかは難しい問題です。窪さんの新しい長篇小説『夏日狂想』(新潮社)は、主人公たちにモデルがいることは読めばすぐ分かりますよね。

 ええ、長谷川泰子と中原中也、小林秀雄。

 彼らの三角関係から出発しているのに、小説が進むにつれて、事実とはどんどん違う貌(かお)を見せていきます。実在の人物を主人公にした〈評伝小説〉というジャンルがあって、女性作家が激動の人生を生きた女性を書くパターンが多いですよね。評伝と名乗る以上、事実を大きく曲げることはできないけれど、心理描写は入れられるし、割と高い評価を得やすくて、私の統計では文学賞を取る確率が高い(笑)。それなのに、なぜ窪さんは『夏日狂想』を長谷川泰子の評伝小説にしなかったのでしょう?

 私の作品の流れで言うと、数年前に『トリニティ』(新潮文庫)という長篇を書きました。雑誌のライターやイラストレーターを主人公に、一九六〇年代という、女性たちが表現活動をできるようになった時代を扱ったものです。次はそれより前の、もっと不自由な時代に表現を志した女性を描いてみようと思って、編集者さんと話しているうちに「長谷川泰子がいたな」と。泰子は最初は女優を志し、後には中也と同人誌を出すなど〈書く〉意志もあった人です。そこで調べていくと、彼女は中也や秀雄の周囲の男たちからずいぶんひどい言われ方をしているんですね。天才二人を手玉に取った……。

 ファム・ファタルみたいな。

 それだといい方で、精神的におかしかったとか、ほとんど毒婦呼ばわりとか、さんざんです。〈おれたちの憧れの中也や秀雄に愛された女〉に対する、男たちの嫉妬を感じました。これはあんまりだろう、泰子は魅力があったに違いないし、時代の制約さえなければ、彼女の才能も花開いたんじゃないか。ただ、泰子の評伝小説を書くには資料が少な過ぎて、後半生はフィクションとして創るしかないと、ある段階で決めました。小説の後半は、私が現実の泰子さんにして貰いたかったことを主人公にさせた、と言えばいいのかな。
 ひとつ、ヒントになったのはタランティーノ監督の「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」です。あの映画は実際にあった有名な殺人事件をクライマックスに持ってくるかと見せかけて、全く違う着地をするんですね。ああ、こんなふうに〈偽の歴史〉にしちゃってもいいんだ、と。

 『夏日狂想』の後半、まさしく史実から離れて、主人公が〈書く女〉として自立していくさまが、すごく胸に響いたんです。『トリニティ』も名作でしたが、その先まで行ってくれた、よくぞ書いてくれた、と感嘆しました。
 主人公は単に〈書く〉だけではないのです。窪さんが仰ったように、泰子はまず男たちから〈書かれる女〉だったわけですね。周囲からだけでなく、中也も秀雄も、泰子らしき恋人について書いています。それを「女冥利に尽きる」と感じる女性もいるかもしれませんが、書かれることは他人から定義されることでもあります。主人公は自ら〈書く女〉になることで、自分自身を定義し直していく。書くことで人生を生き直すわけですね。

『この父ありて』の父親たち

 〈書かれる女〉が〈書く男〉と共犯関係になるケースもあります。つまり、男が書きたがっている女性像を、女が意識的にか無意識にか演じていく。例えば高村光太郎と智恵子もそうだったかもしれませんが、そんな関係は私にはしっくりきません。

 島尾ミホさんと敏雄さんも共犯関係にあったかもしれないけれど、ミホさんはやがて自分も〈書く女〉になっていきました。エッセイだとミホさんも〈敏雄さんとは愛し愛された理想の夫婦関係でした〉みたいに、まだ世間の通念と折合いをつけるように書くのですが、小説の場合は突き抜けて、夫婦の悲惨や愛の残酷さを描いていく。虚構の力で真実を吐露しています。

 『この父ありて』によると、ミホさんのお父さん(養父)は素敵な方だったようですね。

 大平文一郎さんですね。温厚な人格者で、教養もあって、真珠の養殖とかシベリア鉄道への枕木の輸出とかさまざまな事業を興したけれど、どれも上手くいかなかった。すべては奄美のためで、こういう一身を故郷に捧げる人が昔はいたんだとしみじみしました。

 石牟礼道子さんのお父さんも魅力的でした。学歴はなくても、いろいろ深い言葉を吐く方で、それこそ昔はこういうお年寄りがいたなあと懐かしくなりました。

 石牟礼さんの父・亀太郎さんはまさに市井の哲学者。貧しい農家に生まれ、小学四年までの学歴しかなくて石工になったのですが、物事の根本から考えを組み立て、筋を通して生きた人でした。ただ時代に恵まれず、厳しい境遇に育ったこともあって、鬱屈から酒癖が悪かったそうです。酔って暴れ出すと、お母さんは幼い弟を連れて逃げ、入学前の石牟礼さんが酒の相手をした。彼女は三十代のエッセイでは亀太郎さんのことを批判的に書いているのですが、年齢と共に父への視線が変わっていきます。

 ああ、分かる気がします。

 石牟礼さんに限らず、若い頃は「こんなお父さんであって欲しかった」という理想の父親像があって、実際の父に反発していたのが、年齢を重ねると距離がとれるようになって、父には父の事情があったんだと理解できる場合がある。『この父ありて』に取り上げた女性たちは、みんな長生きなんですよ。だからなのか、父の死後に関係を結び直すことができています。

 私も長生きしたいな(笑)。

 ただ、長生きしたからといって、父親を許せないままの場合もある。一筋縄ではいかないのが父娘なんですけどね(笑)。

子供の方が愛している

 梯さんの本はいつも驚くような事実が明かされますが、今度の本でも、石牟礼道子さんが何度も自死を試みていたというのには吃驚しました。

 石牟礼さんは、こつこつと水俣病患者に取材して『苦海浄土』を著し、患者たちのために長年尽力して、最期まで折目正しい文章を書いた立派な方、というイメージですが、どうやら晩年まで〈死にたい人〉だったようなのです。憑依体質という言葉は使いたくありませんが、幼い頃から、他人の哀しみや苦しい感情が自分の中に入ってきてしまう少女だったようです。

 島尾ミホさんにも似たところがありますか?

 ミホさんは自我がものすごく強いから、むしろ他人の感情などを寄せつけないタイプだったと思います。石牟礼さんみたいな方は、長く生きるのが大変だったかもしれません。

 田辺聖子さんのお父さんは、こう言うと言葉が悪いのですが、敗戦後、急激にダメな人になっていきますね。

 戦前の田辺貫一さんは明るくて、カッコよくて、写真技師としての腕前もよくて、聖子さんを大事にして……という父親だったのが、昭和二十年六月一日の大阪大空襲で自分の写真館が灰になったのを機に、まるで覇気を失くしてしまう。田辺さんの当時の日記を見ると、そんなお父さんが歯痒くて苛立っていたことがわかります。

 父親が二・二六事件に巻き込まれた齋藤史さんや渡辺和子さんは勿論、この本で取り上げた方の多くは戦争で人生が大きく変わります。そこに梯さんならではの視線を感じました。

 私が好きな女性作家を並べて、彼女たちの父親を調べていったら自然とそうなったんですけどね。九人のうち、一九二〇年代生まれの人が六人。夫はぎりぎり戦争へ行かずに済んだかもしれないけれど、親は戦争でひどい目に遭った、という世代です。当り前のことですが、人は「どんな時代に生まれたか」という制約が大きいなあと再認識しました。格別に弱いとか愚かだったわけではなく、ただ時代のせい、例えば戦争のせいで、父親ひいては娘の運命が大きく変わっていきます。

 私が自分の父親のことを100%責められないのは、ちょうどサラ金が最悪の時代だったせいで、借金がどんどん膨らんじゃったんですね。今の時代だったら、あそこまで酷い目には遭わずに済んだでしょう。そして私自身は高度成長期に生まれたことが自分を形作っていると思っています。

 私の父は昭和三年生まれで、中学の途中で陸軍少年飛行兵学校へ移って、戦後は自衛隊に入隊しました。母は九年生まれで、宮崎で九人きょうだいの家に育って、中卒で福岡の紡績工場の女工になります。両親が自衛官と女工というのは、イヤだったわけではないけれど、「何も少年兵から自衛官にならなくても」「何も女工にならなくても」みたいな思いが正直ありました。今の言葉で言う〈文化資本〉がない家で、ハードカバーの本なんて家に一冊もありませんでしたからね。
 でも調べていくと、両親は田舎の農家で生まれ育った昭和ひとケタ世代の、ひとつの典型ともいえる経歴の持ち主なんですよ。軍の学校に入るのは家が貧しい男子が進学するほぼ唯一の手段だったけれど、戦後になるとそれは学歴として認められなかった。私の父は高等小学校卒の学歴で社会に出ることになりました。同じように少年兵だった人たちに取材したら、あの時代、警察か自衛隊か消防署なら就職できた、と。紡績女工はというと、朝鮮戦争の特需で給料も福利厚生もよくて、地方の学歴のない女の子の憧れの職業だった。前の東京五輪の女子バレーの選手はみんな女工さんでしたよね。

 親がどんな人生を歩んできたのかが分かってくると、日本や時代というものが見えてきますよね。でも、私はまだ父や母のことが十分には分からずにいます。つくづく思うのですが、子供の方が親のことを深く考えていますよね。父は亡くなりましたが、母は健在なんですよ。彼女は、私が母のことを考えてきた十分の一も私について考えたことがないと思う。それが切なくて、また新たな憎しみが(笑)。

 うん、絶対に子供の方が親のことを考えるし、愛していますよね。

 息子がいるんですけど、彼は私のことをそんなに考えてない気がする(笑)。最初の話題に戻るようですが、梯さんのエッセイを読むと、お父さまのことをすごくお好きですね。

 露わには書いていないと思いますが、文章ってバレますね(笑)。私は三姉妹の末っ子で、父は男の子が欲しかったんです。私が生まれた時、産院に駆けつけたら「女の子です」と言われて赤ん坊の顔も見ないで帰った、というのはわが家の笑い話になりました。そんなこともあって、コンプレックスとまではいきませんが、私は「父から期待されていない」と思いながら育ったんですね。するとどうなるかと言うと、先生や上司など、父に代わる男性の期待に応えようとする人間になるんです。父は自衛隊で全く出世しなかったのですが、そんな父への反発か、若い頃の私は、いかにも出世しそうなタイプの人が好きだった(笑)。

 父親って変なところで影響力を発揮するんですよね。お金に困って一緒に心中しようとした父なのに、でも好きってどういうことよ、と今でも思います。おかげで私は〈ダメだけど優しい人〉と感情的にギリギリしないと恋愛した気になれないんです。心中に誘われたいわけではないけど(笑)。

 ふんわりと穏やかな恋愛では満足できない?

 女性に対する好き嫌いの原型が母に作られたのなら、男の好みは父かよ、と思います。父親って、本当に罪作りな存在ですよ。

 しかし、娘たちがこんなに親のことを考える時間や労力は一体どこに行くんでしょうね。

 『この父ありて』の九人のように、そのうち作品に還元されるんだ、と開き直るしかないですよね(笑)。

 この対談はコトゴトブックスで収録されました。『夏日狂想』や『この父ありて』のサイン本付き対談動画はコトゴトブックス(https://cotogotobooks.stores.jp)で二〇二三年一月末まで配信中(有料)です。

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