書評

2015年11月号掲載

「劣化した民主主義」に効く解毒剤

――藤井聡・適菜収『デモクラシーの毒』

中野剛志

対象書籍名:『デモクラシーの毒』
対象著者:藤井聡・適菜収
対象書籍ISBN:978-4-10-339661-1

 内閣官房参与の藤井聡京大教授と哲学者適菜収氏による、実に際どい対談である。
 対談の大きなテーマは、そのタイトル『デモクラシーの毒』にある通り、民主政治に内在する「悪」についてである。その「悪」とは、全体主義のことである。ついに全体主義が日本社会全体を蝕み始めたという恐るべき真実が、対談を通じて浮かび上がる。
 全体主義と聞いて「何を大げさな」と一笑に付したくなったのなら、すでに「デモクラシーの毒」がマスメディアを通じて脳神経にまで回り始め、正常な感覚が麻痺して、目の前で起きていることの意味が分からなくなってしまったのだと考えた方がよい。解毒剤として、本書を処方しよう。
 ただし、使用上の注意を申し上げておくと、本書は、かなり強い薬である。その代わりに、飲みやすいように工夫がされている。対談という形式なので楽に読めるし、専門用語は必要最小限に抑えられ、ワイドショー的な話題も豊富に登場する。
 例えば、本書全体をパラパラとめくってみると、対談の中で登場する様々な人物の写真が載せられているのだが、そのバリエーションが実に可笑しい。
 橋下徹、安倍晋三と続いた後に、ゲーテ、その次は菅直人、そしてアーレント、小泉純一郎、バーク、西郷隆盛、石原慎太郎の後に、突然ターミネーター、そしてニーチェを挟んで佐村河内守、小保方晴子、小沢一郎、その後はル・ボン、ヘーゲル、福田恆存、ソクラテス、オークショットと来たのに、いきなり竹中平蔵、そして何故かアンタッチャブルの山崎弘也、SEKAI NO OWARI......、といった具合である。この面々が一冊の中に登場する本には、お目にかかったことがない。
 これだけ見ると、「いったい、この二人は何をしゃべっているのだろう」と思われるかもしれない。しかし、これは、間違いなく日本のデモクラシーを巡る対話なのであり、そしてこの人物たちは、いずれもデモクラシーと無関係ではないのである。
 考えてみれば、デモクラシーとは、国民が主権者となる政治形態とされているのだから、デモクラシーを巡る対話は、当然の帰結として、主権者たる国民を巡る対話になる。だとするならば、佐村河内守、小保方晴子、そしてお笑い芸人やミュージシャンにまで話が及んでもおかしくはないはずだ。なぜなら、彼らは国民が関心を寄せた対象であり、したがって彼らは国民の資質を検証する材料となり得るからだ。
 日本の政治の質の低さを批判する論者はあまたいるが、そのほとんどが政治家を槍玉に挙げて論評する。しかし、主権者は政治家ではなく、国民である。政治家は国民に選ばれたに過ぎない。ほかならぬ国民自身が、そう信じているではないか。だとするならば、本来、批判の矛先は、政治家ではなく、主権者たる国民一般に向けられるべきであろう。
 二○○九年の選挙において政権交代が実現し、民主党政権が成立した際、多くの論者そして国民が「これで政治が変わる」と興奮した。しかし、民主党政権の体たらくが明らかになると、国民は再び選挙で政権を交代させた。
 しかし、選挙で政権を換えれば、政治が変わるというのは幻想に過ぎない。なぜなら、デモクラシーにおいては、国民こそが主権者である。ならば、政治を変えるには、主権者たる国民を変えなければならないはずだ。だが、選挙によって政権の交代はできても、国民の交代はできない。
 したがって、政治が劣化したのだとしたら、それは国民が劣化したからである。国民を馬鹿にして言っているのではない。むしろ、その反対に、国民を主権者として尊重すればこそ、そういう結論に至るのである。
 というわけで、藤井氏と適菜氏もデモクラシーの毒について語ろうとして、大衆批判を展開せざるを得なくなっている。その批判の対象には、本書の読者すらも含まれてしまう場合もあろう。だから、この対談は「際どい」というわけである。
 だが、良薬は口に苦し。本書を一通り読めば、デモクラシーの毒は、かなり中和されて無害化されるはずだ。
 ただし、それで気持ちが楽になるわけではない。むしろ苦しくなるだろう。なぜなら、毒が抜けて正常な感覚が戻った結果、今度は、日本社会を蝕む全体主義の正体がまざまざと見えてしまうからである。

 (なかの・たけし 評論家)

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