書評・エッセイ

2020年4月号掲載

〈日本ファンタジーノベル大賞2019〉受賞作 刊行記念特集

留守番電話

高丘哲次

対象書籍名:『約束の果て 黒と紫の国』
対象著者:高丘哲次
対象書籍ISBN:978-4-10-353211-8

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 妻が癌であるという診断を受けたのは、二〇一八年九月二十四日のことだった。
 不妊治療のためレディースクリニックで検査を受けた際、腹部に大きな腫瘍が見つかったのだ。同席していた私は、医師の口から出たあまりに予想外な言葉に、質問ひとつ返すことも出来なかった。
 医師は簡潔に説明を済ませると、その場で自宅近くの総合病院に連絡を入れてくれ、精密検査の日取りが決まった。
 診察室を出た直後に妻が、
「私もがん保険にはいってたかな?」と小声で訊いてきたことを覚えている。
 精密検査の日、妻はひとりで病院へと向かった。
 私は、いつものように出勤した。翌日に出る検査結果を聞くため休暇を申請し、予定されていた打ち合わせを先延ばしにした。さも忙しそうにスケジュール帳をめくる同僚の手付きが目について、むしょうに腹がたった。
 夕方、携帯電話に妻からのメッセージが届いた。
「会計が混んでいてしばらくかかりそうだから、お弁当を買って帰るね」
 私は、何と返信して良いか分からず、
「早めに帰るよ」とだけ伝えた。
 その日の夜、寝床につくと常夜灯にぼんやりと照らされた平板な天井が、やけに近く感じた。手を伸ばせば、指先で簡単に突き破れそうなほどに。何も無い空間を探っていると、いつの間にか朝になっていた。
 頭に鈍い痛みを抱え、妻と二人で病院へと向かった。
 診察室に入ると、若い医師がじっとモニターを見つめていた。私達の方へ視線を移すなり、前置きもなくさらりと言った。
「癌ではないようですね」
 腫瘍は大きいが悪性ではないため、手術はせずに経過を観察してゆけば良いとのことだった。ほっとしたのと同時に、強烈な眠気が襲ってきた。
 だが、認められていた休暇は午前中だけだったので、会計を待つ妻を残して病院を後にした。
 そして、下り電車を待つ駅のホームでのこと。
 携帯電話が鳴った。
 上着のポケットから取り出すと、画面に表示されていたのは見知らぬ番号だった。直感的に、病院からだと思った。妻と一緒だったので、その場では本当の診断結果を伝えることが出来なかったのだと。
 私はコールが止まるまで携帯電話を握りしめ、心が落ち着くのを待ってから、留守番電話を再生した。
 録音されていたのは、日本ファンタジーノベル大賞の最終候補に残ったことを知らせる内容だった。
 このような実体験を紹介したのは、事実は小説よりも奇なり、という常套句を導きたいからではない。実際、この年は最終候補止まりだった。小話としてなら、もう少し強いオチが欲しいところである。
 ただ、この経験がなければ、私は小説家になることが出来なかったと思っている。妻が癌と診断されてからの数日間で、現実は異なった姿を見せるようになり、ひいては創作への取り組み方も変わった。
 人生とは、もとより奇妙なものなのだろう。誰しもが、理不尽とも思える消息盈虚(しょうそくえいきょ)に翻弄され、それでも日々を積み重ねている。私たちが辿る道には、好むと好まざるとに関わらず、驚きが満ちている。
 ならば、旅の友である小説はどうあるべきか。
 少しくらい風変わりな物語では、きっと無聊をなぐさめる役にも立ちはしない。自分だけの特別な物語を胸に秘めながら、当たり前の日常を生きる人たちの心を動かすためには、いかなる小説を届ければ良いのか。
 結局のところ正解など無いのだと思いますが、そのことを自分なりに考え抜いた末に書き上げたのが、日本ファンタジーノベル大賞2019受賞作の『約束の果て 黒と紫の国』という小説です。ぜひ、書店でお手にとっていただければ幸いです。

 (たかおか・てつじ 作家)
※本書のカバーはリバーシブルになっています。

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