書評

2022年9月号掲載

特別エッセイ

記憶とは不思議なものだ

半世紀ぶりの「再乱入ライブ」

山下洋輔

〈一九六九年〉という熱い季節、
フリージャズを始めたばかりの青年ピアニストが
バリケード封鎖中の早稲田大学へ
「グガン!!」と殴り込んだ事件があった――

対象書籍名:『猛老猫の逆襲』
対象著者:山下洋輔
対象書籍ISBN:978-4-10-343705-5

 『村上春樹presents
  2022/7.12
  山下洋輔トリオ
  再乱入ライブ
  TOKYO FM/早稲田大学共催』
 と書かれた大きな立て看板が、早稲田大学構内の大隈記念講堂の階段に出現した。昨年秋に早稲田大学4号館に「村上春樹ライブラリー」が開設されたのだが、同じ4号館で1969年に山下洋輔トリオがジャズ演奏の「乱入ライブ」を行なったことを、村上さんが思い出す。それを50年以上たった今、同じ大学の講堂で再現しようというものなのだ。
 当時の教室乱入演奏も含めて、どういう経緯だったのか、この50年間を思い返して記すことにする。
 50年前、正確に言えば53年前ということになるだろうか、1969年に、ぼくはそれまで自分のやっていたジャズのやり方を「フリージャズ」という方法に変えた。アメリカで実験されていたやり方で、伝統的なジャズのメソッドに課せられていた様々な規則を全て取りはらって、それぞれのプレイヤーが思うままに音を出し、他のプレイヤーはそれに反応して、純粋な意味での「即興演奏」を成り立たせようというものだった。 
 そういう演奏を、最初にアメリカのプレイヤー、ピアノのセシル・テイラーやアルトサックスのオーネット・コールマンなどで聴いた時のぼくの反応は「なんだこれは! でたらめではないか!」というもので、こういうものには近寄ってはならないと考えた。当時のぼくは、そう感じざるを得ない「正統派」の道を歩んでいたのだ。先輩たちに教えられる通りにモダンジャズの基礎である「ビバップ奏法」を勉強し「ブルース形式」や「循環形式」を覚えて、そこに出てくる典型的な和音構造、コード進行をマスターした。チャーリー・パーカーの「コンファメーション」を思うように弾けた時にはとてもとても嬉しかったものだ。
 さらにその前の記憶を遡ることにする。
 1960年に高校を卒業した時には、ぼくはもうジャズの演奏ができるプレイヤーになっていた。プロのバンドから声がかかるたびにそのバンドにトラ(エキストラ、正規ではないその日だけの臨時メンバー)で行った。といってもやりたいモダンジャズの演奏ができるわけではなく、仕事場はキャバレー、ダンスホール、小さなクラブなどだった。それでもバンマスがジャズの好きな人だと、客のいない時に好きな曲を演奏できた。それ以外は、お酒やダンスの伴奏の曲ばかりなのだが、その少ない機会や、手に入れていたレコードのコピーを通じて前述したモダンジャズのやり方をマスターしていたというわけだ。その頃に渡辺貞夫さんからセッションバンドへの参加のオファーが来たのは嬉しかった。もっとも参加したのは短期間だったが。そのあとは、ぼくは人に雇われることのない自分自身のグループを持とうと考えた。
 知り合いのドラムやベースと組んでピアノトリオを作り、「枯葉」や「酒とバラの日々」などをやっていた。その少し前のことだが、ギターの高柳昌行さんとベースの金井英人さんが主宰していた「新世紀音楽研究所」というものが週に一度銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」を借りて行われるようになり、我々若手にも人前でジャズを演奏できる環境が与えられた。そこで知り合ったのが、のちに生涯の師匠となるジャズ評論家の相倉久人さんだった。
 相倉さんは司会をしながら、我々に様々なことを教えてくれた。現代音楽から前衛美術から社会論まで驚くほどの博識で、その頃現れていた超前衛作曲家のジョン・ケージのことも相倉さんから聞いた。「4分33秒」という曲は、演奏者はその時間の間、何もせずにピアノの前に座りやがて去って良いというものだと知って、これには驚愕したものだ。
 そして、60年代の最後の年にぼくは演奏の仕方を、近寄ってはいけないはずだった「フリージャズ」に変える。理由は色々あるが、相倉さんの言葉とともに、ぼく自身の病気があった。67年の晩秋に風邪を患い、それが肺炎になりやがて肺浸潤と診断された。結核に準じた治療をせねばならず、68年いっぱい一切演奏をできない時間を過ごした。その間文字を書こうと思い、「ブルー・ノート研究」という民族音楽学の論文を仕上げて後に発表したりするが、それはまた別の話だ。
 病気明けの1969年春に、相棒のテナーサックス中村誠一とドラムの森山威男とともにリハーサルを始めた。ベーシストは都合で来られなかった。演奏に対する情熱が溜まりに溜まっていたぼくは、今までのやり方では飽き足らず「皆勝手に思い切ってデタラメをやろう!」と提案した。二人とも面白がってやってくれた。サックスは「シャバドビゲロゲログエーダバドビドビ」、ドラムは「ドバダドバダグシャダバドバラダドバラダ」、ピアノは「ガレロレキャラコログジャグジャドバベシャ」などとやりまくった。これがお互いに通じ合い、「ああ言えばこう言う」の応酬をいくらでも楽しくできることがわかった。
 それまでに聴いてくれていたファンからは「どうなっちゃったんだ」と困惑の声が上がり、先輩ミュージシャンからも「ヨースケ何やってんだ、大丈夫か」などという声が届いた。しかし我々はたじろがず、確信を持ってその演奏を続けていった。短期間のうちに評判となり、当時テレビディレクターだった田原総一朗さんの耳に入った。これが「早稲田事件」の発端だ。
 60年代のいわゆるアングラな活動をしている興味深い人物を取りあげていた田原さんに、当時、オキテ破りのなんでもありのいわゆるフリージャズを演奏していた我々トリオのことが伝わり、取材するということになったのだ。事前の話し合いで色々突き詰められたぼくは「ピアノを弾きながら死にたい」という言葉を発した。これを聞いた田原さんが「それなら俺が殺してやる」と言ったのだ。
 学生運動が最高潮だった時期であり、田原さんには知り合いの全共闘一派がいた。彼らに早稲田大学内のバリケード封鎖中の教室に大隈講堂にあったピアノを運びこませて、我々のトリオに演奏させようというものだった。聴き手はゲバルト活動中の学生で、田原さんの予想では、演奏など聞かずになんだこれはと言ってぶち壊しに向かうはずだった。火炎瓶が飛ぶなか我々演奏者が逃げ惑う姿を収録しようという計画だったのだが、案に相違して学生たちはしんとして聴き入ってしまった。この様子が今でも映像に残っている。村上春樹さんは当時早稲田大学の学生だったが、この場面を目撃できず残念に思っていたらしい。「伝説」として残ったこともあり、村上ライブラリーが開設された機会に再乱入計画を立ててくれたのだ。
 大隈講堂の「再乱入コンサート」のチケットはすぐに完売した。伝説はよほど強く残っているらしい。ネットでの同時配信もおこなわれた。コンサートの趣旨に沿って当時のままのメンバーによる演奏が要請されたが、これは中村誠一、森山威男共に自分のリーダーバンドで活動を続けているという元気さだったので、当日結集することにまったく問題はなかった。リハーサルをやろうという話も出なかった。集まれば本番のステージで昔通りにできるという確信が我々全員にあったのだ。当日顔を合わせて、あの時やった通りの順番でやろうと話しただけだった。舞踏家の麿赤兒さんが本番の音源をもとに作ってくれたライブアルバム「DANCING 古事記」に収録されている「テーマ」、「木喰」(中村作曲)、そして「ミナのセカンド・テーマ」、「グガン」というレパートリーだった。
 一曲目はピアノが即興でフレーズを弾き出すというものだったが、これがなんの違和感もなく合奏になり「ドカシャバ、シャバドス!!」と盛り上がって無事に終了した。客席から大歓声が湧き上がりホッとした。50年後の聴き手もちゃんと理解してくれているのだ。
 三人での演奏は昔通り汗みずくになってそれがまた快感だった。拳打ちも肘打ちも遠慮なく出した。演奏中に顔にも汗をかき、ぬるぬるになってメガネが動き回った。それを手で外してピアノの中に放り込んだ。よく考えたらこれは50年前にやっていたことだった。あの当時はしょっちゅうそうだったのだ。あれ以降50年間、これは起きなかった。「そうか、こういうことが起きるんだ」と、三人での演奏の凄まじさを再認識した次第だ。
 演奏の後、村上春樹さんとトークをした。終わりに「ピアノソロでアンコールをお願いします」と言われた。最近必ず弾く自作のバラードがある。たまたま今回のライブの直前に村上さんの『ノルウェイの森』を開くと、冒頭に「記憶というのはなんだか不思議なものだ」という言葉があるではないか。偶然にも、そのままのタイトル「Memory is a Funny Thing」がそのバラードの曲名なのだ。さっそく村上ライブラリーで英訳本を確認すると、まさにその言葉通りだった。今回のイベント全体を象徴するようなタイトルの曲を弾いて、この「再乱入ライブ」を締めくくることができたというわけだ。


 (やました・ようすけ ジャズピアニスト)

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