インタビュー
2026年5月号掲載
『君の不在の夜を歩く』刊行記念 著者インタビュー
ひとは、そこにいてくれるだけでいい
死んだ者と生きている者、弔うとは何か、そして世界を繫ぐためには──深い共感と感動が広がる最新作を振り返る
対象書籍名:『君の不在の夜を歩く』
対象著者:窪美澄
対象書籍ISBN:978-4-10-325927-5
聞き手・編集部
──窪さんの新作『君の不在の夜を歩く』は高校の元同級生五人の物語で、各話ごとにそれぞれが視点人物になっていく連作ふうの長篇小説です。担当編集者が作家にインタビューする時、あまり手放しで賞賛するのは身内褒めみたいに見えそうで控えてきましたが、今回ばかりは許してもらおうかな、と思います。非常に力のこもった作品だし、文章や構成は巧みで、すみずみまで細心の気配りがなされていて嘆息しました。とりわけ最終話には泣かされっぱなしで、「こんなことを、こんなふうに書くなんて、作者は卑怯だ」と呟きつつ、身が震えるほど感動していました。
窪 かえって噓くさくありませんか(笑)。
──泣けるとか泣いたとか大っぴらに言うのははしたないことなので、これでも遠慮しながら喋っています(笑)。『君の不在の夜を歩く』は2023年から「小説新潮」で書き継いでこられた小説ですが、雑誌の担当者に聞くと、別に「泣ける話を」とかお願いして始めたわけではないそうですね。
窪 これまでも新潮社さんには、現代ものの『よるのふくらみ』にせよ、年代記ふうの『トリニティ』や『夏日狂想』にせよ、好き勝手に書かせてもらってきました。今回も「何でもご自由に」と言ってもらいました。
ちょうどその頃、他の出版社さんからは「癒しになる小説を」みたいな依頼が少し続いていたんですね。癒しとまでは言わなくても、味付けがマイルドなものを求められることも多かった。これは編集者の方々が「読者が窪美澄に求めているものを」と考えて頼んでくださっているのだし、私も広く読まれたいのだから、ご依頼を受けたら頑張って書きます。もちろん、そこに自分の何か大切なものを乗せて書くこともできます。でも、やはり「癒し」というお題で書く時は、重すぎたり、痛みを伴ったりする物語は少し躊躇ってしまいます。だから今回は、デビューの頃から書いてきたような、生々しいテーマ、重たい題材を避けずに正面から描いてみよう、と。
──それで〈自死する人間とその周囲〉という題材になったのですか。
窪 もうひとつ、性にまつわることもきちんと描こうと思ったんです。私は性をテーマにした賞でデビューしたものですから(注:当時の「女による女のためのR-18文学賞」は性を描くことが義務づけられていた)、小説誌の〈官能特集〉にはよくお呼びがかかっていたんです。だからもう、じゅうぶん書いたと思ったし、最近では小説の性描写に引く読者も増えてきた気がして、しばらくは性を正面から取り上げることをしませんでした。そこをもう一度、きちんと書いてみたかった。
──どうしてでしょう?
窪 自分の性的指向を診断できるサイトがあるんですよ。私は結婚の経験はあるし、子供もいるし、まあ異性愛者だろうなと漠然と思いながら試してみたら、Q(クエスチョニング)でした。で、改めて振り返ってみると、確かにそうかもしれないなと納得したんです。私の中にもいろんな指向があるんだなあと、この年齢になって性的に揺らぐというか、新たな発見があったんですね。でも官能小説にしても恋愛小説にしても、つい異性間の物語しか考えてこなかった。それはずいぶん実情とズレているような気がしてきて、今度の『君の不在の夜を歩く』では、性行為にまで及ぶかはともかく、恋愛と呼べる感情は同性間でも当り前のように存在している、という書き方をしています。
ただ、この小説は「これまでとは違った、新しいものにしてやるぞ」と力まかせで書いたというよりは、自死というテーマにせよ、性描写や同性間の心情にせよ、少し省筆して物語を進める書き方にせよ、いまの読者の方々にきちんと届くかなと手探りしながら進めていきました。編集の方にも、いきなり完成した原稿をお送りするのではなくて、まず詳しいシノプシスを送って意見を聞きながら執筆を進めていました。
──小説は〈菜乃子が死んだってよ〉というLINEのメッセージから始まります。菜乃子の三十八歳での自死を、残された四人──彼女の夫になった達也、達也を好きな健太、健太を忘れられない沙耶、菜乃子を思い続ける倫子──が、どう受け止めていったか、どんな影響を受け続けたかが描かれていきます。この三十八歳からの人生の有為転変、という年齢設定が絶妙ですね。
窪 三十八歳は、仕事にせよ私生活にせよ、だんだん人生の先が見えてくるけれど、まだ諦めるには早い、まだ角は曲がり切っていない、でも迷いや肩の荷は増えていく──そんな年齢だと思うんです。女性だと出産するかどうかのタイムリミットもありますね。子供がいればいたで、もちろん子育てがたいへんだし。藤岡陽子さんがこの小説の書評(「四十代という人生の難所」、「波」4月号)を書いてくださって、あの四人の四十代に注目していただいたのはとてもありがたかったです。振り返ってみると、私自身も四十代はかなりハードな時期でした。
──菜乃子は承認欲求の塊のようなところがありましたが、作家になることを切望しながらも、ついになることができなかった。彼女が自死した時、達也はアパレルの会社員、健太は新興宗教にのめり込む母親に反発する不動産会社の社員、沙耶は料理研究家のアシスタント、倫子は公募の文学賞で準優秀賞を得たことがあるものの第二作は書けずに眼鏡チェーンの会社で働いています。菜乃子が死んだことで、彼らは心身の深いところを揺り動かされて、それまでとは違うけれど結局はこうなるしかなかったんだ、という人生を歩いていきます。
窪 菜乃子は四十代に入らずに自死してしまいますが、残された四人にとって、何と言うのかな、菜乃子は「生々と死んでいる」んですよ。志賀直哉が「下らなく過ごしても一生苦しんで過ごしても一生だ。苦しんで生々と暮らすべきだ」(「らくがき三つ」)と言っているんですが、私は、菜乃子は「苦しんで生々と死んでいる」と思っています。それもまた人生なんですよ、きっと。残された側が、単に菜乃子をいなくなったものとして片づけられずに、影響を受け続けていくのは、彼女が生々と死んでいるからかもしれません。
──かつてコラムニストの山本夏彦さんがよく「私は生きている人と死んでいる人に区別をつけない。どちらも等しく私の友人である」みたいなことを書かれていましたが、ああいう感覚でしょうか。
窪 周りに死者が多くなってきた私の年齢のせいもあるでしょうね。
今回の小説は現実の世界に起きたこととあえてリンクさせているところがあります。コロナが盛んな時期に、何人かの知人が亡くなりました。中には親しかった方もいたし、それほど交流のなかった方もいましたが、亡くなった後で存在感を増す人っているんですね。コロナ禍の時はご葬儀を内々でやられることも多く、きちんとお別れを言えなかったこともありました。そのせいもあるのかもしれませんが、亡くなった人は生きている人にこんなに強く働きかけてくるんだ、こんなに影響を及ぼすんだ、と感じたのがこの小説を書くきっかけだったように思います。そして、亡くなった人をどんなふうに弔うのがいいのかも考えてみたかったんです。
──小説の後半で、達也がまさに「弔いが足りない。圧倒的に足りないのだ」と思う場面がありますね。あそこは菜乃子をきちんと弔いたいという思いと同時に、この国、この社会を覆っている「ぬかるみ」を葬りたい、という達也の願いが重ねられていました。切実な祈りが、私的な事柄だけでなく、時代にまで広がっていく。ここは窪さんがこれまでの作品より一歩踏み込んだように感じました。
窪 これも私の年齢が原因かもしれません。下の世代に繫いでいく、残していく、という意識が強くなってきました。登場人物たちは私より二十歳くらい年下ですが、彼らもさらに年下の世代に世界を繫いでいかないといけない。少しでも世界をきちんとしてから渡していきたい、という願いは私も達也も同じだと思います。現実とリンクさせていると言いましたが、安倍元首相の事件があって、健太を宗教二世という設定にしましたし、トー横キッズのことから達也の出会う少女が生まれました。彼らが時代の「ぬかるみ」に足を取られているとして、微力な私たちにいったい何ができるのかはわからないのですが……。
──窪さんの作品には、第一作『ふがいない僕は空を見た』以来一貫して、ふがいない、だらしない、どんなにダメな人でも──口に出せないような大きな罪を犯した者でも──どうか救いはあってほしい、という祈りを感じてきました。その祈りの声がさらに深まった気がします。
窪 そこは確かに一貫していると思います。今回で言えば、やはり自死の話になりますが、私は自死した人を否定したくないんですね。もちろん、目の前に「私、自殺する」と言う人がいたら、私も「とりあえず今夜はやめて、明日もう一度考えてみようよ」とか「生きてください」とか止めると思います。それでも、あちら側に行ってしまうことはあるでしょう。自死してしまった人に「弱いやつだ」とか、それこそ「地獄に落ちる」とか、あるいは「自殺はよくない」とさえ言いたくないんです。
──そこを考え詰めたことが、あの感動的としか呼びようのない最終話へ収斂していったのだと思います。そこでは自死した人を否定しないままで、読者を生きる方へとやわらかく促していくのですが、重要な小道具として「本」が出てくるのには、と胸を突かれました。とりわけ「本を読んで心がネガティブに傾いただけじゃない。/私は明日を生きていく力を本から吸収して成長してきたのだ」という箇所の前後です。私たちが本を読むのは、決して道徳的に正しいことを学ぶためではありませんが──。
窪 ふっと死んでしまうことはあるかもしれませんが、もし人が小説を読むことで、とりあえず明日までは生きてみようか、と思える時があるのだとしたら、私はいつかそんな小説を書いてみたいんです。
私は作家なので、菜乃子のように承認欲求はもちろんあります。でも人間って、何かを残せなくてもいいんですよ。認められなくても全然かまわない。存在証明なんかいらない。あなたがそこにいてくれるだけでいい。あるいは自分がここにいるだけでいい。いて、いい。『君の不在の夜を歩く』は、そんなふうに思ってもらいたくて書いた小説のような気がいまはしています。
(くぼ・みすみ 作家)



