書評
2026年5月号掲載
「自分は何者か」の先にあるしなやかな強さ
山崎エマ『それでも息子を日本の小学校に通わせたい』(新潮新書)
対象書籍名:『それでも息子を日本の小学校に通わせたい』(新潮新書)
対象著者:山崎エマ
対象書籍ISBN:978-4-10-611117-4
自分の半生を描くという体裁で、山崎エマさんは日本社会を鮮やかに切り取って提示してくれた。編集者の方から「比較文化論的な教育エッセイ」と紹介された本書は、「日本は~」「英米は~」と主語が大きくなるほどにそこに括られない人々が増えるという比較文化論の困難を、あくまで“私”の経験から“私”は「息子を日本の小学校に通わせたい」と一貫させることでさらりとかわして本題に切り込む。それも、欧米スタンダードから日本を斬るわけでも、愛国心に燃えるわけでもない、絶妙な距離感で。このしなやかな強さが鮮烈に印象に残った。
だから、このしなやかな強さの所以を知りたくて、本書を繰り返し読んだ。彼女は、もっとも多感な時期に、みんなが共有する「当たり前」から疎外される経験を繰り返している。大阪の公立小では、黒髪の級友たちの中で一人だけ髪の毛が茶色かった。ニューヨークの大学では、幼少期からアメリカに暮らしていれば誰もが知っているテレビ番組や商品名がわからなかった。ところが、この「当たり前」を共有できない弱さが、強みに逆転する瞬間がある。アメリカで働きはじめ、社会人として当然だと思っていた振る舞いを、「勤勉だ。周囲への配慮があって、責任感も強いのに自己中心的ではない」と称賛されるのだ。
この間に何が起きたのかといえば、自身のアイデンティティの問題に折り合いをつけていた。日本人っぽさ、ニューヨーカー的な部分に加えて、父の母国のイギリス人らしさと複数の自分に引き裂かれていた彼女は、大学の卒業制作で、同じく複数の文化を経験したサードカルチャーキッズをテーマにした映像作品を手掛けた。そして「それぞれ異なる自分がいるのは当然」と受け容れる。
おそらく、この瞬間、大阪の公立小、神戸のインター、ニューヨークの大学と、どんな環境でも自己の本質を維持しようとする「レジリエンス」こそ、複数の自分が普遍的に共有する力だと、「ありのまま」に肯定したのだ。
この後、常に自己の内側に向けられていた問いが外へと向かい、日本と英米の交錯の中で自己を見失いそうになったコンプレックスは、並び立つ複数の視点への柔軟性と共感力という、稀有な特性へと転換される。これが、私が本書で感じたしなやかな強さ、すなわち、自分と他者の常識が衝突したとき、安易に相手を否定せず、自分の「当たり前」を疑うだけでもなく、双方の美点を並び立たせられないかと試行する姿勢である。例えば、アメリカで仕事を評価され、久しぶりに帰った日本で、その旧態依然とした女性観に戸惑いながらも、「ニューヨークで学んだ自分の感覚が全て正解だという確信も」なく、「とにかくまずは日本社会の現在地を正しく把握してから、自分らしいスタンスを見極めたいと思っていた」という態度には、それが端的に覗く。そして、欧米流の“多様性”が実は不寛容ではないかと反発が強まるいま、この「適応力と包容力」の度量は意義深い。
その彼女が「ありのままを認める」いまの日本の教育を「進化」と認めながらも、物足りなさも吐露している。これは、「アナと雪の女王」の主題歌“Let It Go”の歌詞を「ありのまま」と訳して大ヒットさせ、いまや自己肯定感の醸成を最優先しているような日本の教育に、重たい示唆を含む。例えば、エマさんに大きな影響を与えたイチロー選手は、「自分を肯定するのはものすごく抵抗」があると述べる。自己否定ではないものの、「自分のやったこと、やろうとすることに、常に疑問符をつけ」ているのだと。だからこそ、野球を人生の核に据え、現状に甘んじずに無駄なものを削ぎ落していくストイックさが生まれたのではないか。そして、「作品から無駄な映像を削ぎ落とし、1秒たりとも残さない」編集力が評判を呼んだエマさんの半生も、紛れもなく、「自分は何者か」という問いを突きつけられながら、どんな環境でも維持すべき軸に向かって、自己を研ぎ澄ましていった過程なのだ。
そう考えると、当初、英米との対比で日本社会を鮮やかに切り取った作品と理解した本書についても、朧気ながらさらに深遠な含蓄が浮かび上がる。おそらくこれは度重なる自己疑念のその先にこそ、より深い自己確信があるという、安易な自己肯定と対峙する新たな生き方の提示なのではないか。
(やまぐち・まゆ ニューヨーク州弁護士)



