書評

2026年6月号掲載

「責任を取る」ということ

佐藤優・西村尚芳『特捜取調室─『国家の罠』20年目の再対決─』

恩田陸

対象書籍名:『特捜取調室─『国家の罠』20年目の再対決─』
対象著者:佐藤優・西村尚芳
対象書籍ISBN:978-4-10-356941-1

 私が社会人となった時に、会社の先輩方に口が酸っぱくなるほど言い聞かせられたのは、「責任の範囲」についてだった。ひと一人、取れる責任などたかが知れている。だから、自分の仕事には責任を持たなければならないが、自分の責任の取れる範囲を超えたものは即刻手放しなさい、と言われたのである。
 同時に、自分の身は自分で守らなければならない、とも刷り込まれた。組織というものは、組織全体の保身のために、一部の構成員に責任を負わせて切ることがある。だから、自分の身を守るためには、とにかく上に報告すること、と言われた。当時、私は生命保険会社の新契約の事務部門にいた。生命保険というのは文字通り命に値段を付ける商品であるため、怪しい契約、ヤバそうな契約、というのがしばしば紛れこんでくる。なので、違和感を覚えたものやイレギュラーなものがあったら、その場で報告せよ。要は観察眼を磨き、異状を感じたらすぐに上に上げて、公の話題にしろ、と繰り返し言われたのである。
 そのせいか、足かけ十一年の会社員生活を送った中で、転職してからも、私がいちばん軽蔑したのは「責任の範囲」が分からない人だった。たとえば、外の人に対して「うちのバイトが無能でミスしたんで」と言い訳する人とか、ばっちり決裁印を押しているくせに「知らない」「覚えてない」と白ばっくれる人とか、「なんでも相談してね」と言っておいて、結局「部下の失敗は部下のもの、部下の成功は私のもの」にする人とか。
 本書を一読して、これは「責任」についての話だな、と思った。
 考えてみると、今くらい、世界中で「責任」が話題になっている時代もないのではないかと思う。SNSでも政治でも経済でも、誰もが「私のせいじゃない」と主張し、「悪いのはあいつだ」と責任を負わせる相手を血眼になって探している。皆が被害者の席に座ろうとして椅子取りゲームをしている状態だ。加害者の席だけがいつも空席だが、被害者席に座っているつもりが、いつのまにか加害者席になっていることも珍しくない。
 主なテーマは、ここ二十年の検察の不祥事や司法システムの不備について。カルロス・ゴーンの海外逃亡や、素人目に見てもむちゃくちゃ根拠に乏しい冤罪事件など、信じられないような事件が次々と起きた。録音されているのに暴言を吐く若い検事、証拠の隠蔽や捏造を図った検事に至っては、正直、「なんと無防備な」と思ってしまった。
 私はサービス業の人にやたらと横柄な態度を取る人や、相手によってコロコロと態度を変える人が、心底不思議でならない。いつも「なんて無防備なんだろう」と思うのだ。今この場所ではサービスを提供する側の人かもしれないが、別の場所で会う時、あるいは将来会う時は、逆の立場になったり、あなたの顧客となる人かもしれないのに。
「保身」と「身を守ること」は違う。
 ましてや、検事という、独任制で多くの人の人生、もちろんおのれの人生も左右する仕事に就いているのならば、「責任の範囲」と真の「保身」を考えたら、そうとう用心深くならざるを得ないはずだ。
 誰に対する責任なのか。なんのための責任なのか。
 佐藤優氏と西村尚芳氏の場合、それはひじょうに明確だった。
 佐藤氏は日本とロシアの関係改善という国益。西村氏は、時代の風による騒ぎを鎮めるという公益。どちらも目的ははっきりしており、そのための落としどころを探し、ある意味協力しあった『国家の罠』が共感を得たのは、これこそが大人の、職業人としての責任の取り方だと読者が思ったからなのではないか。
 そう、ひと一人が取れる責任など、たかが知れている。その重さに見合う力と度量がなければ、決して「責任を取る」ことなどできない。そのいっぽうで、自分のできる範囲で責任を果たしたい、と思っている無数の人々もいる。果たして自分の持てる「責任の範囲」はどこまでなのか。それをシビアに見極めることが、「誰かのせい」の大合唱に満ちたこの世界で、心穏やかに暮らしていく「よすが」になるのではないだろうか。

(おんだ・りく 小説家)

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