書評
2026年6月号掲載
「軽い現実」と「重い現実」
島田雅彦『Ifの総て』
対象書籍名:『Ifの総て』
対象著者:島田雅彦
対象書籍ISBN:978-4-10-362211-6
歴史学者は起きた出来事については説明してくれるが「起きてもよかった出来事はなぜ起きなかったのか」については説明してくれない。歴史家だって本業で忙しいから、そんな酔狂には付き合ってくれないのだ。でも、「起きてもよかった出来事はなぜ起きなかったのか」という問いは歴史の思いがけない深みと奥行を時に開示する。
私の個人的な問いの一つは「663年の白村江の戦いで日本・百済連合軍が唐・新羅連合軍に大敗した後、なぜ唐は日本列島に侵攻してこなかったのか」というものである。唐は当時東アジア最大の帝国であり、唐に朝貢していなかったのは日本だけだった。唐の侵攻に備えて、天智天皇は防人の制を整え、水城を築き、都を近江大津京に遷した。でも、唐は攻めてこなかった。理由は不明。起きなかったことだから誰も「なぜ」と問わない。でも、「なんか変だ」と私は思う。そう言っても誰も相手にしてくれない。そう思っていじけていたら島田雅彦さんが僕と同じことを考えているのをこの本で知った。
「あり得た歴史の可能性を気ままに語ればいい。国家の主権が私たちにあるのと同じように、歴史解釈もまた私たちの手に委ねられるべきなのである。また、言論や表現の自由には歴史を書き換える自由も当然、含まれている。」
島田さんは小津安二郎の「秋刀魚の味」の名場面(笠智衆の元駆逐艦艦長と加東大介の元水兵の対話)を引く。加東大介は「もし日本が勝ってたら、あたしたちどうなってたでしょうね」というSF的想定を口にする。庶民の想像力は限界があるので、彼にはニューヨークで金髪女に三味線を弾かせて都都逸を歌わせるくらいのことしか思いつかない。けれども、この種の想像力を行使することは思いがけなく重要である。というのも、この台詞が明らかにするのは、兵士たちは、勝った後に自分たちが米国をどう統治するかについて、米国女を性的に収奪する程度の未来像しか持っていなかったということをあらわにするからである。そのような無能な支配者の下に米国市民は長くは屈服していないだろう。いずれ対日「レジスタンス」によって日本は北米から駆逐され、属国化程度では済まないような桁外れの処罰を受けて息絶えていたかも知れない。
「あり得た歴史」について想像をめぐらせることはしばしば歴史のプレイヤーたちの隠された本質を露呈させる。島田さんの着想に私は同意の一票を投じる。「あり得た歴史」についての歴史研究があり得ない以上、それはフィクションとして書かれるしかない。本書はそういうフィクションである。
タイムトラベルが可能になった日本の話。「過去に遡り、異なる選択をしていたら、(…)今とは別の現実が出現していたかもしれない」と考える男が主人公である。ただ、そこで結像する「今とは別の現実」はシステムが計算して造形した脳内の仮想に過ぎない。
主人公花村薫が行うタイムトラベルは、天才エンジニア霧生善郎が開発した生成AI「カオス・ジェネレーター」に「精査した情報を打ち込むと、あり得たかもしれないもう一つの現実が再現される」という仕組みである。彼はこの「もしかしたらあり得た現実」をレポートすることで、眼の前の現実が、たまたまそうであるにすぎない偶有的なものにすぎないことをクライアントに教えて、歴史の固定的な見方を揺り動かすことを生業としている。ある時は航空機墜落事故の真相を探り、ある時は国会議員テロの裏面を探索し、ある時は日本を米国の属国として差し出した保守政党の領袖に翻意を迫り、ついには真珠湾攻撃を阻止して、日本を悲惨な敗戦から救おうとまでする。でも、何をしても日本の未来はさっぱり明るくなりそうもない。最後には未来にタイムトラベルしてこのろくでもない現実を変える手立てを見出そうとするのだが、果たして……という話である。
現実には「軽い現実」と「重い現実」がある。千年前からある現実と昨日生まれた現実では同じ現実でも重さが違う。でも、自称「リアリスト」たちはこの区別を軽んじる傾向がある。そのことに私はつねづね不満だったが、島田さん考案のタイムトラベルは眼の前の現実の「軽重」の考量を可能にしてくれる。私たちに必要な知的態度は、ただ現実を直視することではない。その現実にほんとうに現実である資格があるのかを問うことである。
(うちだ・たつる 思想家・武道家)


