書評

2026年6月号掲載

故郷の人々の「深い洞窟」

アリス・マンロー『ジュビリー』(新潮クレスト・ブックス)

小竹由美子

対象書籍名:『ジュビリー』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:アリス・マンロー、小竹由美子 訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590208-7

 2006年にお届けした『イラクサ』以来、新潮クレスト・ブックスでは八作目のマンロー作品となる本書『ジュビリー』は、2013年に「短篇小説の名手」であるとしてカナダ人初のノーベル文学賞を受賞したアリス・マンローの「唯一の長篇小説」とも呼ばれる連作集である。カナダ総督文学賞を受賞したデビュー短篇集『ピアノ・レッスン』に次ぐ二冊目の著作にあたる。注目の新進作家としてつぎは長篇を、と周囲から期待され、本人もそのつもりで女の子の成長物語を書き始めたものの、マンローにとってはこの連作という形式が長篇に近づけるぎりぎりのところだったという。
 舞台はカナダ・オンタリオ州の田舎町ジュビリー。語り手デルの一家が暮らすのは、町からかなり遠いもののまだ田園地帯とまではいかない、いかがわしい人たちも暮らすフラッツ・ロードという一画で、そばには毎年春になると氾濫する川がある。穏やかで朴訥な父は毛皮獣の飼育で暮らしをたて、母は上昇志向が強く野心家、物語のはじめでは第二次世界大戦が進行中、とマンローの読者にはお馴染みの作者自身の子供時代がほぼそのままなぞられている。
 観察力が鋭く想像力豊かなデルの視点から、日々の生活と周囲の人たちが描かれる。対照的な性格の両親とまだ頑是ない弟、独特の世界観を持つ父の使用人ベニーおじさん、家系図作成と郷土史の執筆に励む大おじ、家事万端をそつなくこなし、目立つことや世間の笑いものになることに怖気をふるう因習的な二人の大おば。
 フラッツ・ロードを嫌う母は、やがて町に借りた家で子どもたちと暮らすことに。母は戦時景気で羽振りのいい農家相手に百科事典を売り歩き、新聞に投書して産児制限を訴えたりし、町で完全に浮いてしまう。知識欲や向上心を母と共有しながらも、その無神経さが疎ましくなったデルは、母と距離を置いて自分の世界を探求しはじめる。一方、弟は地元らしい粗野な男のふるまいに馴染んでいく。
 思春期に入ったデルは成績抜群。貧農の出ながら苦学して教師になったことを誇りとする母からは、男に人生を振りまわされないよう勉強して自立しろと勧められ、本人も、母を反面教師にしながらも将来への夢や野心は持っている。性的好奇心も旺盛で、一家に出入りする戦争帰りの男に危ない接近を試みたり、勉強仲間と性的遊戯をしてみたりしたあげく、信仰心篤い木場労働者と深い仲になり、目指していた道を逸れていく。
 最後の一篇では、密かに物語を書いていたデルがふとしたことから現実生活の奥深さに気づき、将来マンローと同じような、「台所のリノリウムが敷き詰められた深い洞窟」である市井の人々の心の奥を探求する作家となることが示唆される。
 マンローと長年親交のあったマーガレット・アトウッドは本作を、芸術家の少女期を描いた教養小説ビルドゥングスロマンとして高く評価している。若いころ本書に励まされたという女性読者の声もよく聞く。実際のマンローは恋愛沙汰とは縁のない十代を過ごし、病で床に臥す母の代わりに家事や妹弟の世話を担いながら奨学金を獲得して大学へ進学。同窓生と結婚して子育てをしながら作家となった。以後、半世紀にわたって短篇小説を書きつづけ、ついにはノーベル文学賞受賞という栄誉を手にし、2024年、九二歳で世を去った。
 その二か月後、末娘アンドレアが、九歳のときにマンローの二度目の夫フレムリンから性的虐待を受け、二十五歳のときにようやく母マンローに打ち明けるも、いったん家を出た母は、結局フレムリンが死ぬまで添い遂げたという衝撃の手記をトロント・スター紙に発表、マンローの名声は一夜にして地に落ちた。日本ではなんの報道もないなか、アンドレアさんの性被害と長きにわたる苦しみを読者の方々に伝えたいという思いを担当編集者をはじめ新潮社の方々も共有してくださり、「新潮」2024年9月号に『ジュビリー』から「女の子と女たちの生きかた」「フォトグラファー」二篇を訳出掲載する際に、事件について書かせてもらった。その後、関連する報道のなかで抜きんでていたレイチェル・アヴィヴによる「ニューヨーカー」誌の論考「アリス・マンローのパッシヴ・ヴォイス」を「新潮」2025年4月号に、拙訳にて掲載していただいた。
 本書『ジュビリー』はマンローが前夫と暮らしていた頃の初期作品だが、あとがきでも事件の概略に触れている。アンドレアさんの訴えを踏まえて、マンローの作品をお読みいただけたらと願っている。

(こたけ・ゆみこ 翻訳家)

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