書評

2026年6月号掲載

アンコール!

阿刀田高『掌より愛をこめて─阿刀田高さいごの小説集─』

高橋源一郎

対象書籍名:『掌より愛をこめて─阿刀田高さいごの小説集─』
対象著者:阿刀田高
対象書籍ISBN:978-4-10-334333-2

 コンサートに行くと、そのジャンルにかかわらず、予定された演奏曲目(セットリスト)が終わると、最後にアンコールの時間になる。演劇だって、上演演目が終わった後、役者たちが物語の世界から現実の世界に戻ってきて、最後の挨拶をする。みんな、その「世界」を終わらせたくないからだ。
 わたしの知る限り、もっとも感動的なアンコールの一つは、20世紀最大のピアニスト、ウラディミール・ホロヴィッツが、1986年、82歳の時、およそ60年ぶりに祖国へ戻り、モスクワで行われたリサイタルでのものだ。アンコールでホロヴィッツが弾いたのはシューマンの「トロイメライ(夢)」。子どもでも弾けるその曲を、ホロヴィッツは、この世のものとも思えぬ美しい音で弾いた。その様子はいまも動画で観ることができる。静まり返ったホールで、身じろぎもせず聴き入る聴衆たち。中には流れ出る涙をそのままにしている人も。それが巨匠からの最後の贈り物であることをみんな知っていたのだ。

 阿刀田高さんの『掌より愛をこめて─阿刀田高さいごの小説集─』を読んだ。美しいと思った。簡潔にも思えた。静かだった。でも諧謔も生きていた。エロティックなところも、謎めいたところも、楽しげに遊ぶ箇所もあった。つまり、これまでずっと、阿刀田さんがわたしたちに送り届けてくれたものが、みんなそこにあった。いや、ただ「そこにあった」のではなく、まるで巨匠がアンコールで弾く曲のように「そこにあった」。いままではひとりの演奏家として、たくさんの聴衆の前で弾いたのだ。心をこめて。そして拍手を浴び、お辞儀をして、ピアノの前を去っていった。約束事はそこで終り。いや、すべてを尽くして聴衆に捧げた時間は終わった。それでも、別れがたく、もう一度、聴衆と見つめ合うために再び、ピアノの前に座るのだ。だから、アンコールで、もう一度、巨匠は姿を現す。終わったと思ったものが終わってはいないのだ。もう一度、繰り返してくれるのだ。今度は、まるで恋人の囁きのように親密に、こっそりとしかける悪戯いたずらのように自由に、正式の物語が終わった後、突然訪れる束の間の休息のように、穏やかな日射しを浴びて。

 本書の掲載順と、作品の発表の順番は異なっている。
 冒頭の「黒いシアター」と題された10本の連作がもっとも遅く書かれた。この本が阿刀田さんの「さいごの小説集」なら、この部分がほんとうに「さいご」に書かれたものになる。
「黒いシアター」の作品たちには、いままでわたしたちが読んできた阿刀田さんの短編の良さが詰まっていた。いや同時に、すべての作品から漂ってくるのは、小説家・阿刀田高の姿というより、人間・阿刀田高の姿であるように、そして、そこには、拭い去りがたい「終り」の感覚があるようにも感じられた。
「下り電車で」の主人公の「あなた」は四十一歳で「都心の優良企業に勤めるエリート」だ。結婚しているが、子どもはいない。厳しい立場の中間管理職として今日も出社する。駅に着き、停まっている電車に乗り込む。「あなた」はすぐに、間違えて「下り電車」に乗ったことに気づく。けれど「ま、いいか」と思う。「いつも、いつも、混んでいる上り電車」ではなく「下り電車」に乗ってゆく。するとなぜか、忘れられない過去の思い出が胸の奥から湧きだしてゆく。「電車の響きが消え、なにかが薄くなって」いき、その電車は「末尾の車両に一人だけを乗せたまま花咲く里へと向かっている」のだ。説明など不要だ。ホロヴィッツの「トロイメライ」をただ深い沈黙と共に聴いたロシアの聴衆のように、わたしたちはただ読めばいいのである。
 現時点で阿刀田さんの「さいご」の作品である「壺の底」は「黒いシアター」の掉尾を飾るものでもある。「八十歳を越え」「妻の春菜が二年前に他界」した「私」の、日々の暮らしと思いを描くこの短編の主人公の姿に、誰もが作者の阿刀田さん本人を思い浮かべるだろう。そうかもしれない。いや、そんなことはどうでもいいのだ。年老いて身体もままならない「私」。すると亡くなったはずの「妻」の声が聞こえてきて、「私」に大切なことを教えてくれる。それが何なのかは、読者のみなさんに自分で確かめてもらいたい。「妻」が「私」に教えたかったことは、著者がわたしたち読者に伝えたかったことなのかもしれない。最後に、著者は「アンコール」で、そのことを書いた。いや弾いたのである。そして、わたしたちは読んだ。いや聴いたのだ。みなさん、立ち上がり、著者に万雷の拍手を。

(たかはし・げんいちろう 作家)

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