書評

2026年6月号掲載

『モナリザの裏側』刊行記念特集

これは美術館だ。

一色さゆり『モナリザの裏側』

杉江松恋

対象書籍名:『モナリザの裏側』
対象著者:一色さゆり
対象書籍ISBN:978-4-10-356861-2

 まるで美術館にいるようじゃないか。
 一色さゆり『モナリザの裏側』という、技巧を凝らした短篇集に対して月並みな感想で申し訳ない。しかし美術館のようである。それも特別展ではなくて常設展、歴史を超えて受け継がれてきたさまざまな美の遺産が一堂に会した場だ。
 技巧面は完璧である。たとえば世界でも最も有名な絵画を題名に配した表題作で、中心になるのは意外な作品である、という遊びを見てもらいたい。そうか、それが「モナリザの裏側」なのか、と美術知識を示されて読者はまず唸ることになる。末期癌の女性が愛娘とルーヴル美術館を訪れることが話の発端で、次いで彼女の秘められた過去が明かされていくことになる。もちろんそれは「モナリザの裏側」に関したものである。
 巻頭の「オスロで光の種をまく」は、インテリア企画販売の会社で働いていたが燃え尽きてしまった男性がムンクに魅了され、どうしても現物を見たくなってノルウェーの首都を訪れるという話だ。精神が不安定なせいもあり、彼の行動には他人には理解しがたい飛躍がある。理解してもらえないことが辛いから会社を辞めてしまったのである。この、世界との間にある断層に苦しんでいる主人公像は、そのまま『叫び』の画題に結びついている。絵画の中枢にあるものと小説のプロット、キャラクターが結びつくよう計算されているのだ。
 読者がいちばんはらはらさせられるのは、三番目に収められた「富士山のハンマープライス」ではないだろうか。オークションハウスで働く日比野真美はニューヨークのメトロポリタン美術館で顧客に会う。一代で財を成した油谷福造という男性が、ゴッホ作とされる絵画を落札しようとしている。惚れこんだあまりか油谷は「ゴッホの絵をあの世に連れていく」と発言し、金満日本人の傲慢、まさに黄禍だ、と轟轟の非難を浴びていた。実際に会った油谷は確かに難のある人物であり、日比野は個人的感情と職業倫理の狭間で悩むことになるのだ。本作はキャラクター造形に力を入れた作品で、読者にどのような印象を与えるかを計算しながら作者は油谷を描いている。また、もう一人ワイルドカードに当たる登場人物が配置されているために、話の先が読めないのである。そういう内容ではあるが、ゴッホの物語と言うしかないほど美術小説としての完成度も高い。
 少し年配の読者なら気づかれただろうが、「富士山のハンマープライス」は、円が強かった時代の物語である。バブル経済華やかなりし頃、ゴッホの「ひまわり」が高価格で落札されたというニュースが世間をにぎわせたことをご記憶の方も多いはずだ。このように、最初と最後の二篇は現代が舞台だが、間の三篇は別の時代設定になっている。
 二番目の「青い馬の瞳」は第二次世界大戦前夜のドイツが舞台である。当時、ナチス礼賛につながらない作品には退廃芸術のレッテルが貼られていた。そうした作品だけを集めた展覧会を訪れた日本大使館職員、島田野以が主人公である。権威に盲従することを求め、多様性を認めようとしないナチスの姿勢は、偏狭化の進む日本の未来を見せられているようで寒気がする。本作で効果的に用いられているのはミステリーの技法であり、五篇のうちで結末の切れ味も最も鋭い。図と地が反転するような仕掛けに私は惚れ惚れとさせられた。
 もう一篇の「千年のあこがれ」は戦前の京都が舞台で、〈わたし〉こと白舟ぼたんが主人公である。当時の女性に自立はほぼ認められていなかったが、ぼたんは女学校の同級生であった黒川薫子がそうした逆境をものともせず画家を目指している姿に憧れ、彼女と同じ京都画塾に入った。過去の設定ではあるが、女性が不利益を被る構造は現代も根強く残っており、その矛盾に主人公は立ち向かうのである。一口で言えば闘争の物語で、モチーフとしてマネのモデルを務め、自らも画家であった女性、ベルト・モリゾが用いられる。
 収録順に並べてみると最初のムンクから、退廃芸術、ゴッホ、ベルト・モリゾ、最後の「モナリザの裏側」と、扱われる題材がゆるやかにつながっているのがわかる。近代美術史の流れがわかるように配慮して順路を定めた、学芸員の配慮を見たような思いがする。だからやはり、これは美術館なのだ。一色さゆりという当代きっての美術小説作家が企画した、夢の美術館である。ぜひチケットのお求めを。

(すぎえ・まつこい 文芸評論家)

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