書評
2026年6月号掲載
変化しない「何か」の底を探る
佐伯啓思『日本人の精神I 権威と空気の構造』
対象書籍名:『日本人の精神I 権威と空気の構造』(新潮選書)
対象著者:佐伯啓思
対象書籍ISBN:978-4-10-603945-4
このたび、新潮社から『日本人の精神』と題する三冊本を出版していただくこととなった。その第一分冊が『日本人の精神I 権威と空気の構造』である。
この三冊本は、私の集大成である。こういうと少し大げさかもしれないが、私の主観の上ではそういう気分である。
ふつう、集大成というと、これまでの研究成果の積み上げの上にその成果が一気に開花するかのような印象があるが、私の場合はそうではない。
50年前、すなわち1970年代には、大学院で経済学や経済思想などをやっていたのが、半世紀後には、「日本論」「日本人論」になってしまったのである。
専門的な学問的生活などというものは私には縁遠いものだが、それでも、知的関心でいえば、1970年代には社会科学の先端分野である数理経済から出発して、途中、政治学、社会学、西洋哲学などに出入りしながら、半世紀後には、「日本人論」へ到達するというのでは、どうみても研究成果の積み上げどころではない。横滑りである。専門の深化ではなく、専門の横断である。
しかし、当人からすれば、この横滑りには十分な理由があって、その結果が、『日本人の精神』という三巻シリーズなのだ。半世紀かけた放浪が、この本にたどり着いたということである。集大成ではなく、終大成というべきかもしれない。
私が大学院生であった時代とは、戦争が終わってまだ30年ほどしかたっていなかった。冷戦が終わって現在35年ほどだから、思えば、まだ十分に「戦後」であった。
経済学や政治学という専門分野はともかくとして、日本全体の論壇の関心は、敗戦後の日本の近代化、民主化、経済発展にあった。それが、うまくいかなければ、自由な資本主義よりも、ソ連型の社会主義の方が優位に立つ。
私自身の関心も、専門的な経済理論よりも、この「戦後日本の近代化」の方に向いていた。そして、いずれにせよ、日本の近代化とは、その先行モデルとしての「アメリカ」を学ぶことであった。経済学も政治学も国際関係論もその学習のためのテキストなのである。
にもかかわらず、そのことに対する違和感が私にはずっとあった。ひとつは、米国の社会科学は、あくまで当地の風土と文化と歴史の産物ではないのか。「科学」と称して普遍性を装っているだけではないのか。こういう疑問が膨らんでゆく。
そして、もうひとつ、「近代化」は本当に望ましいのか。米国は確かに「近代社会」だ。近代社会とは、人間の欲望や自由を無限に拡張する社会であり、そのためには、古いものを破棄し、新しい技術によって、社会を絶え間なく変化させる。明日は今日よりよくなっていなければならない。
こういう考え方そのものが、米国流であって、そもそも日本の文化や価値観とは違うのではないか。そのことが決定的となったのは、1990年代のいわゆる「構造改革」であった。この時、米国は、日本は、政治、経済社会の全般にわたって近代化していない、と批判した。だから日本の構造を変えなければならない、という。そして、日本の政治家、官僚、知識人など、こぞって米国に賛同したのだった。この光景を前にして、私は、「日本とは何か」という問いに向き合うべきだと強く思うようになる。
「日本とは何か」などといっても、テーマそのものが無茶苦茶である。ただ、二つのことが私の強い関心であった。ひとつは、どうしてわれわれは、かくも簡単に海外の(特に米国の)価値観を受け入れ、一見、それに付き従ったかのような顔ができるのだろうか。しかも、構造改革にしても、決して本気で変えようともしないのだ。いや、改革の合唱にもかかわらず、変化しない何かが残るのである。
第二に、この変化しない「何か」の底を探ってみると、そこにこそ「日本的なもの」が見えてくるのではないか。それは、「近代化」や「欧米化」などによっては決してかすめ取られない、われわれがほぼ無意識のうちに持っている価値観であり、一種の宗教意識であろう。そこに、日本文化の深層とでもいうべき、自然観や死生観や歴史観があり、結局、日本人は、この「目にみえない価値」によって動いているのではないだろうか。
この二つの問いは、別々のものではない。重なり合っている。いずれにせよ、この問いに私なりの暫定的な解答を出すことが、この三巻本の役割である。仏教には以前から関心はあったが、日本文化も日本の古典もほぼ素人である。しかし、本当は、「日本」を語るのに、玄人も素人もないだろう。「日本」を理解することは「私」を理解することだからだ。結局、学問というものは、己を知るために学び続けるということ以外の何ものでもないのであろう。
(さえき・けいし 思想家)



