書評

2026年7月号掲載

追いつめられた女性たちにやがて芽生えたもの

キム・ウィギョン『ハロー、ベイビー』(新潮クレスト・ブックス)

最相葉月

対象書籍名:『ハロー、ベイビー』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:キム・ウィギョン、小山内園子 訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590209-4

 二十数年前、韓国の生命倫理法に詳しい研究者にこんな話を聞いた。韓国では有名大学の女子学生を頂点とする卵子ドナーの階層化が進み、中国から移住した朝鮮族の卵子がとりわけ安価で流通していると。私は中国朝鮮族の女性の身元引受人をしているため、彼女たちが韓国で出稼ぎをしていることは知っていたが、不妊治療に南北問題があることに愕然とした。
 その後の法改正で卵子売買は罰則付きで禁止され、法律婚の夫婦を対象に第三者からの無償供与のみ認められることになったものの、排卵誘発剤の投与や侵襲性の高い卵子採取の負担を考えるとボランティアのハードルは高い。実際はドナー不足や父系を重視する伝統的な家族観を背景に、闇ルートや海外への生殖ツーリズムがたびたび報じられてきた。
 2018年には韓国の合計特殊出生率が国連加盟国で初めて「1」を切り、世界最低水準が続く。さすがに危機感を抱いた政府は所得や年齢制限も撤廃した「異次元の少子化政策」を打ち出し、二五年単年で「韓国内の全出生児の約五人に一人(19・2%)が政府の不妊治療支援によって生まれた」(保健福祉部)という。主要企業も不妊治療費の補助や有給の不妊治療休暇を認めるなど、不妊治療は今や韓国の最重要インフラになっている。
『ハロー、ベイビー』はそんな国の、三十代後半から四十代の女性たちの群像を描いた小説だ。共通点は高い実績を誇る不妊治療専門病院を受診し、オンラインのトークルーム「ハローベイビー」で連絡を取り合っていること。ノンフィクション作家を目指す四十四歳のムンジョン、三十八歳の専業主婦ジウンはじめ、四十四歳の離婚専門弁護士、三十七歳の獣医、三十七歳の警察官などさまざまな背景をもつ女性が登場する。
 仕事が忙しく経済的な余裕もなかったムンジョンが子どもを欲しいと思ったのは、小説家の夫の仕事にようやく光が差した時。ところが医師に「なんで今頃来たんですか?」と詰め寄られ、治療が簡単ではないことを知らされる。夫は快楽と共に精液を採取するだけなのに、妻はさんざん注射を打たれ、卵子を採取され、胚を移植される。一度で成功などありえず、移植しては失敗、着床しても流産を繰り返すが、夫は妻の苦しみを理解できない。「自分には友達が必要」と気づいたムンジョンは一人ずつ、病院で知り合った女性たちをトークルームに招待する。
 そこは病院で「高齢」と呼ばれる彼女たちの分かち合いの場であり、時に夫に対する糾弾大会になった。人工授精と体外受精の違いも知らない夫、手術直後の妻に旧正月は実家で過ごそうと言うマザコン夫、嫁の胚にまで口を出す姑……。夫婦の温度差や実家の問題は共感できる読者も多いのではないか。ゴッドハンドと呼ばれる医師の存在や技術の進歩が必ずしも福音ではなく、女性たちを追い詰めていることもわかる。そこに父系尊重の伝統が重なると、女性たちには逃げ場がない。
 多囊胞性卵巣症候群(無排卵月経)で夫は無精子症というジウンが退職を決めた経緯はあまりにも切ない。会社に黙って治療を続けていたが、不妊治療で休職中の先輩に対する社内掲示板の心ない書き込みを読んでしまう。「このあと出産休暇、育児休暇までぜんぶ使って、退職金もらって辞めるんでしょ? 子どもを産むことの何が偉いっていうのさ。マジで女の恥」。自分たちの繁殖のために未婚女性を犠牲にするなという声もある。ジウンは自分に言われているようで傷ついたが、狙い撃ちされた先輩に慰めの言葉をかけることもできなかった。
 物語はある日、トークルームをご無沙汰していたジョンヒョから突然、出産報告があったところから動き出す。ジョンヒョは三十歳から十五年間も不妊治療に通い、二十七回の体外受精を経験していた。夫は貿易商で出張が多いため、家では姑とほぼ二人暮らし。病院にも姑が同行していた。これ以上治療はやらないと宣言して約一年、みんな嫉妬を抱きながらも、最年長四十六歳の出産に心を動かされて祝いに駆け付ける──。
 著者も不妊治療の経験者で、同様の経験をもつ女性たちの話を聞くうちに「妊娠以前の物語」が存在することを知ったという。わが子に「会いたい」という、ただそれだけのためにつらい治療に耐え、周囲の無理解に傷つけられてきた女性たちの間にやがて芽生える連帯のかたちには賛否両論あるだろう。だがこれは非婚化、晩婚化が進む日本の明日かもしれない。少なくとも私は、彼女たちの涙に見覚えがある。

(さいしょう・はづき ノンフィクションライター)

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