書評

2026年7月号掲載

音楽はココロの出来事

佐野芳彦『ヒトと音楽の進化論』

佐野芳彦

対象書籍名:『ヒトと音楽の進化論』(新潮新書)
対象著者:佐野芳彦
対象書籍ISBN:978-4-10-611126-6

「動物が歌う」と云われてもピンと来ない──何故か。生物学者ロジャー・ペインの言葉が興味深い。「ザトウクジラの唄の回転数を上げて再生すると鳥の唄のように聞こえる(中略)鳥の唄の回転数を下げると、ザトウクジラの唄そっくりに聞こえる」。おそらく生き物たちは、それぞれ異なる時間(タイム・ベース)を生きている。時間こそ、音楽で最も重要な要素だ。
 ピンと来ないもう一つの理由は、音律と音階だろう。いま巷に溢れる音楽の大半は「ドレミファソラシ」、7音でできている。この全音階と、1オクターヴに12個の半音をどのように配置するかは、古代ギリシアの数学者ピタゴラスが考えた。他の生き物が使うはずはない。
 自然発生的に生まれたヒトの音楽は、もともと4つか5つの音でできていた。7音の全音階は、キリスト教が「グレゴリオ聖歌」に使うことで広まった。作曲家が創るクラシック音楽の始まりだ。
 この全音階と1オクターヴの構造を知れば、体系が異なる音楽も扱うことが出来る。地球上ほぼ全ての音楽を包含する、この雑食性と分析力こそ、ヨーロッパの音楽が世界中に拡がった要因だ。
 しかしそれは、音楽の優劣を示す訳ではない。ジョン・ウイリアムスは、映画「未知との遭遇」の中で、地球外知的生命体と交信するための音楽を「レミドソ」、4音だけで書いた。その原初的な深い響きに、生命の脈動を感じる。
 生物音響学者のギュンター・テンブロックは、歌の定義を「無作為的でないフレーズの連続」とした。つまり、それが音楽であるかどうかは、音を発する側の意図にも因る。音楽は、「ヒトの心理が生みだすココロの出来事」なのだ。
 西洋の音楽理論でアナリーゼ(楽曲分析)しても、音楽を理解したことにはならない。音楽には常に、科学と哲学の要素が含まれている。
 稀代のシンガー・ソングライターであり偉大な哲学者でもある「クマのプーさん」は云う。「詩とか歌とかってものは、こっちでつかむものじゃなくて、むこうでこっちをつかむものなんだ。だから、ぼくらは、むこうでこっちを見つけてくれるところへ出かけるくらいのことっきり、できやしないんだ」──これこそ作曲家の、まさに実感だ。
 現代の音楽の構造は、100年前からほとんど進化していない。変化があるとすれば、それを齎したのは音楽家ではなく、テクノロジーだ。
 ドビュッシー、ストラヴィンスキー、チャーリー・パーカー、マイルス・デイヴィス、ジミ・ヘンドリックス、ビートルズ。20世紀の音楽家たちが総がかりで抉じ開けた扉の向こうに拡がっていたのは、不毛の荒野だったのか。その問いは、今も続いている。
 この本は当初、音楽に起きた革命的な出来事を振り返るつもりだったが、結局それは、ヒトのココロの進化を描くことだった。

(さの・よしひこ 作曲家)

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