書評・エッセイ

2012年9月号掲載

テキトーに生きろ/現代の「教養小説」

――戌井昭人『ひっ』

坪内祐三

対象書籍名:『ひっ』
対象著者:戌井昭人
対象書籍ISBN:978-4-10-317822-4

 戌井昭人(いぬいあきと)の新作『ひっ』は現代の「教養小説」だ。
「教養小説」とは何か。辞書を引くとこうある。
〈主人公の人格の形成・発展を中心として書いた小説。ドイツ文学の主流の一つ。ゲーテの「ウィルヘルム=マイスター」、ケラーの「緑のハインリヒ」など。発展小説〉
 つまり一人の若者の人格の形成や発展を描いて行く小説だ。
 しかしゲーテの時代はもちろん、その後の十九世紀、二十世紀に入って、若者の人格発展は簡単に作られるものでなくなった。
 それでも戦争があったりイデオロギーが支配的であった時代は若者が人格を形作って行く(それはマイナスのものでもあったが)イニシェーションのようなものがあった。
 ところが二十一世紀に入って、そのようなものはいよいよ見えにくくなった。
 二十一世紀というのがポイントだ。
 戌井昭人は一九七一年生まれ。
 つまり二十一世紀が始まった二〇〇一年に三十歳になった。
 三十という年齢は青年と大人とを別ける大きな年だと思う。
 例えば『偉大なギャツビー』の語り手ニックも小説の途中で三十歳の誕生日を迎え(その時彼はマンハッタンのホテルの一室での小パーティーの場にいる)、その感慨が語られる。
 ホテルのパーティーでの乱痴気騒ぎを冷静に見つめ、その後に起きた出来事(ギャツビーの死)などを反面教師に、小説の最後で彼はまともに生きて行くことを決意する(はずだ)。
 しかし二十一世紀の現代、そのような乱痴気に巻き込まれても、それは、大人になるためのイニシェーションたり得ない。
 ならばどうすれば良いのだろう。
 そのことを、大人に成り得ないことを、正確に書いて行けば良いのだ。
 そうすればそれが新種の教養小説となり得る。
『ひっ』の主人公の「おれ」は二十六歳。彼は今、五十五歳で亡くなった伯父「ひっさん」の遺言に従って、「ひっさん」の残した遺品やゴミを燃やそうとしている。
「テキトーに生きろ」が「ひっさん」の口ぐせだった。
「おれ」はその言葉に忠実に、「テキトーに」生きているつもりだったが、「ひっさん」に、「テキトーでもなんでもねえよ、おめえは」、と怒られてしまう。
「おれの言ってたのは、そういうテキトーじゃねえよ。生きるためのテキトーさだよ。お前のは、テキトーが死んでる」。
 この言葉は決定的だ。
「おれ」より二十九歳年上の「ひっさん」は「テキトー」に生きてきた。つまり「やりてえこと」をやりながら「テキトー」に生きてきた。
 だから「ひっさん」は「おれ」に、「なんかやりてえこととかねえのかよ?」と尋ねる。
「おれ」の生まれ年を戌井昭人と重ね合わせてみる。つまり「おれ」も一九七一年生まれだとする。
 すると「ひっさん」は一九四二年生まれということになる。
 一九四二年生まれの「ひっさん」は「やりてえこと」をやりながら「テキトー」に生きて行くことによって道を開拓していった。
 しかし一九七一年生まれの「おれ」の前の道は殆ど開拓されている。すべては選択の世界でしかない。「テキトー」に生きることが難しい。
 その時、「テキトー」な「おれ」は「ひっさん」から偶然(いや必然として)七十万円譲り受け、そして「ひっさん」は急死する。これは「おれ」のイニシェーションだったのか。
 私は『ひっ』に続く戌井昭人の「教養小説」、すなわち三十歳になった時の「おれ」の姿を読んでみたい。つまり『ひっ』の続篇を切望する。

 (つぼうち・ゆうぞう 評論家)

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