書評
2026年5月号掲載
読者を面白がらせる“作品”としての日記
筒井康隆『筒井康隆、九十歳のあとさき─老耄美食日記─』
対象書籍名:『筒井康隆、九十歳のあとさき─老耄美食日記─』
対象著者:筒井康隆
対象書籍ISBN:978-4-10-314537-0
世間は日記ブームだそうで、去年から今年にかけて、〈文藝〉でも〈東京人〉でも〈本の雑誌〉でも日記を特集している。日本文学史上でも「土佐日記」以来あまたの日記が書かれてきたが、現役の小説家で日記の名手と言えば、たぶん筒井康隆の右に出る者はいないだろう。
最初に公開された筒井日記は、いまから半世紀以上前、SFマガジン1975年2月号に載った「幼年期の中ごろ」。発表を前提とせずに書き溜めてきた日記の中から〈特にSFの読者が面白がりそうな時代の日記〉(1964年~1965年)を抜粋し、注釈を加えて再編集したものだ。発表する以上は、日記といえども小説やエッセイと同じ“作品”。読者を面白がらせるためにあらゆるサービスと工夫を惜しまない点は、その後の筒井日記に一貫している。
過去に書籍化された筒井日記を読み返して驚くのは、日記ごとに手を替え品を替え、新たな趣向を打ち出していること。「幼年期の中ごろ」やデビュー前のサラリーマン時代(1958年)の日記を併録した『腹立半分日記』は、日本のSFが若く、筒井康隆もまだ若かった頃、時代の波に乗りつづける狂騒的でハイテンションな書きっぷりが最大の魅力だが、『日日不穏』になると仕事の話が軸になってぐっと落ち着いてくるかわり、新機軸として、作家仲間や評論家やファンから届いた私信が大量に投入される。続く『幾たびもDIARY』では、同時に連載していた『文学部唯野教授』と『残像に口紅を』の進捗状況と舞台裏がメイキング風に綴られている。『偽文士日碌』は初のインターネット連載というか、ブログの書籍化。「まえがき」によると、意図的に「文士のパロディ」を演じてみようとしはじめた時期なので、日記も“偽文士”として(いわば文士に仮装して)書くことにしたのだという。
見上げたサービス精神だが、それが思わぬ(思い通りの?)結果を招くこともある。2017年4月4日のエントリーで、慰安婦像について書いた数行がツイッターの公式アカウントに転載されたとたん、ネット上で大炎上したのは記憶に新しい。ブログ版「偽文士日碌」は2008年から2021年まで十三年つづいたが、この騒動のせいかどうか、2013年1月9日分までしか書籍化されていない。もうそろそろ後半部分を単行本化してもいいのではないか。
……と、すっかり前置きが長くなったが、その筒井日記の最新作が本書『筒井康隆、九十歳のあとさき─老耄美食日記─』。本誌読者ならご承知のとおり、〈波〉2023年2月号から「老耄美食日記」というタイトルでスタートし、さまざまに題名を変更しながら(ときどき単発のエッセイとかほぼ小説みたいな回をはさみながら)2026年2月号まで断続的に書かれてきた連載が収録されている。本体にあたるこの連載だけではなく、その期間(八十八歳~九十一歳の時期)に著者が書いたさまざまなエッセイや文学賞の選評まで時系列に沿って日記の合間に挟み込まれ、題名どおり、筒井康隆“九十歳のあとさき”を記録したスクラップブックのようになっている。いわば“老文豪日碌”か。
びっくりするのは、2024年6月に刊行されて一種の社会現象にまでなったガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』新潮文庫版のために書かれた巻末解説まで本書に収録されていること。日記本の途中にどうして他の本の解説がはさまっているのかと普通なら首をひねるところだが、通読すると、『筒井康隆、九十歳のあとさき』という本に『百年の孤独』の解説を収録するというのはたいへん気がきいているというか、『百年の孤独』が筒井康隆という作家の血肉になっていることを考えればむしろ当然。本書には、〈群像〉2025年3月号の特集「孤独の時間。」に筒井さんが寄稿したエッセイ「九十年の孤独」も収録されているからなおさらだ。
さて、肝心の日記連載は、2022年12月6日からスタートする。この日の日記の最後は、〈夜、五時半、夫婦で「重よし」へ。(中略)料理は例によって絶品。この日の料金は六万一千円。以後この日記、おれの公開日記では他に類例のない料理の値段を書くこととする。今までの日記とは違ったことをやらなきゃな〉。
というわけで、この連載では、その日に訪れたレストランの実名と料理のメニューと値段が事細かに記される。料理の写真を撮影してフルカラーで収録すれば、経済的に余裕のある老夫婦のための超豪華な東京・神戸美食ガイドブックがたちどころに完成するのではないか。訪問するのは(経済的に)ハードルが高いとしても、写真くらいは見てみたいよね。
ところが、「美食日記」をわずか二回書いたところで非常事態が出来する。いわく、〈久しぶりに銀行預金残高を見たら、なんと一年前の残額から一千万円も減少している。これはいけません。(中略)このままでは遺産どころか自身の葬式代にまで影響が及び兼ねない。そこで美食を控えることにして、この連作も表記の如きものに変えようと思う〉。
かくして第四回から連載タイトルをいきなり「老耄倹約日記」に変えてしまうのだから大笑い。しかしその次の回は何事もなかったように「美食日記ふたたび」に戻っているので、銀行残高危機は無事に回避されたらしい。タイトル変更に味をしめたのか、連載はさらに「老耄へとへと日記」「幾たびも美食日記」を経て、三人称私小説風の「老化」をはさみ、心臓病で救急車を呼ぶところから始まる「心臓と血管」とその後の話「アルコール・煙草・ジャズ」、さらにはパソコンのゴミ箱に入っていた断片を発掘する「夜を抱いて走る男」と、日記形式からどんどん自由になり、時間も空間も超えて融通無碍に書き綴る。
日記に頻出するレストランは、東京では帝国ホテルの「北京」「ラブラスリー」、ホテルニューオータニの「銀座久兵衛」「にいづ」、ザ・キャピトルホテル東急の「オリガミ」、神戸では垂水の「テアトロ・クチーナ」、ANAクラウンプラザホテルの「たん熊」……などなど。この本にとっては、筒井さんが食べている料理を美食の観点から料理評論家にレビューしてもらうのが本筋かもしれない。山本益博とか。知らんけど。
2024年3月下旬に筒井さんが自宅で転倒し、長く入院したことはインタビューなどでも語られているが、本書にも生々しく書かれている。転倒直後の〈波〉2024年5月号に掲載された「九十歳で見る幻燈」がそれ。“幻燈”をキーワードに過去と現在が混じり合い、その合間に美食メニューの詳細な記録が挿入されて読者を現実に引き戻すというか、ほとんど実験小説のような佇まい。
〈ほぼ三ヶ月ぶりに神戸・垂水へ帰ってきてみれば、何もかも以前通りではあるものの、いや、昔通りであるからこその懐かしさがあり、それはまるで幻燈を見ているかのような感覚なのだ〉と書き起こし、さまざまなレストランを訪れては記憶を甦らせる。
〈なんと懐かしい店だろう。「花菱」へ来てやっと二十年近く前、義母の葬儀の帰りに遺族全員で来た料亭だったことを知る。あの時は伸輔もいたのだった。店主も憶えてくれていた。幻を見ているような気分で畳の間にあがる。(中略)五十年前の幻の中にいるようだ。今夜は神戸迎賓館のレストランにやってきた。ロータリークラブの会員として何度か来た「ル・アン」という店だ。(中略)まるで昨夜の姉妹店にいるようだ。ジェームス山のジェームスさんは戦後の食糧不足の中、妻の実家の松野牧場から牛乳を届けてあげた代りに光子に可愛い少女服、絹のピンクのワンピースをくれた人で、そのお邸が「ジェームス邸」というレストランになっていたのである。昨夜は一階だったが今夜は二階、眺望がすばらしい〉
こんなふうに引用すると老境幻想小説のようだが、そのあと、
〈光子はシャンパンに始まって白ワイン、おれはシャンパンサイダー。コースは碓井豆のスープ他二種のアミューズに始まり、自家製スモーク・サーモンとローブに見立てた大根のマリネと胡瓜のマヨネーズソース、次いでオマール海老と蛍烏賊とホワイトアスパラガス、(中略)お値段が三万四百円余という、昨夜に続く驚くべき安さだった〉と続くところがこの連載の真骨頂。しかし、すぐに悲劇が起こる。
〈次の日から不幸が始まった。肩の痛みをなくそうとしてセデスを四錠も服んでしまったのだ。途端に気分が悪くなったものの、その日はなんとかして韓国料理の「モクチャ」に行った。光子はマッコリ、おれは梨のジュース。チヂミ、プルコギ、サムゲタン、スンデ、などで腹がいっぱいになり、もう食べられないと言っていながら冷麵がくると光子は夢中で食べた。帰宅して寝るまではなんともなかったのだ。二十三日土曜日の朝、いつも通り起きて廊下を歩こうとした。からだの自由がまったくきかなくなっていた。小簞笥の上に倒れ、顔面に無惨な傷を負い、廊下で寝たきりになり、救急車で神戸医療センターに運ばれる。(中略)原因は腎臓だった。薬の服み過ぎで悪化していたところに大量のセデスで、からだ全体の自由が失われたのだった〉
こんな時まで話を面白くしなくていいのにと思うわけですが、さびしさと懐かしさ、悲劇と笑い、現実と幻想が渾然一体となり、日記の中から筒井文学が立ち現れる。
夫婦でシニア向けの超高級住宅型有料老人ホーム「グッドタイムリビング」に移ってからも連載は続き、九十歳を過ぎてもいまだ創作意欲が衰えない(それどころか、去年から今年にかけて発表した短編はすでに五十編を超え、キャリアハイに迫る勢いで書きまくっている)老文豪の日々がふたたび日記形式に戻って綴られる。最終回は「ふたたび美食放浪」(2026年2月号)。
サラリーマン時代の日記から数えると、(出版されているものだけで)七十年近くにわたって断続的に書かれてきた筒井日記もこれでひとまず幕を下ろすのかと思うと感慨深いが、もちろんこれが最後の日記本とは限らない。「老衰日記」とか「臨終日記」とか「あの世日記」とかどんどん続けて、今後も末長く後進のために道を照らしてほしい。
(おおもり・のぞみ 書評家)


